2009年7月8日水曜日

最終回 「ミカ 神なき神信仰」  士師記17章1-13節

サムソンの後、イスラエルを取り巻く情勢はますます混迷を深めていきます。最後部分の17-21章において、カナンの民との戦いは登場していませんが、その代わりにイスラエルの内部抗争が激化していきます。しかもその不法と背信、略奪と大量虐殺、そして女性をモノのように扱う道徳的腐敗は目も当てられません。時に彼らは、それらを神の名によって、公然と行っているのです。今日登場しているミカは、士師でも預言者でもありませんが、特別に名前が記されています。なぜでしょうか?それは彼の行為が、この時代、イスラエルが陥っていた「神なき神信仰」をよく表しているからです。反面教師です。「神なき神信仰」それは一体一どのような「信仰」なのでしょうか?

まずそれは「形式的な礼拝」に見られます。彼らも真の神様(ヤーウェ)の名を告白していました。そして形だけは同じようにお祈りをささげ礼拝していました。しかしそこに「神の臨在」はなく、あるのは「一応」ヤーウェの名をもつ「彫像や鋳像」だけでした。やっていることはカナンの偶像崇拝そのものでした。イスラエルの民は、異教的なカナンの影響を受け、妥協を重ね、シンクレティズム(宗教混合主義)の罠にはまっていったのです。もはやそれは真のヤーウェ信仰とは似て非なるものでした。異教社会に住む私たちも気をつけなければなりません!

そのような礼拝に欠けているのは何でしょうか?それは「悔い改め」です。ミカはもともと母の銀千百枚を盗んだのです。「母の呪いの言葉」を聞いて、怖くなりそれを返しましたが、彼は果たして自分の罪の大きさ認識し、神の御前で悔い改めたのでしょうか?また母も息子かわいさの余り、返された銀ですぐに偶像を作りましたが、母ならまず子供を悔い改めへと導くべきではないでしょうか?そういった「基準」がなく、ただ「祝福」だけを求めるのが「ご利益宗教」なのです。

そのころのイスラエルは、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていました(6)。この言葉は、士師記の中で3度も繰り返され(17:6,18:1,21:25)、士師記はこの言葉で終わっています。つまりこれこそ、士師記に漂う混沌とした空気の原因なのです。「神なき神信仰」においても宗教的な熱心さはありました。しかし、その中心にあるのは「神様」でなく「自分」なのです。彼らは熱心に主の名を呼びながらも、神様を喜ばせることより、自分を喜ばせることに熱心だったのです。

しかもミカは祭司さえも、自分の祝福のために「雇い」ました。彼は言いました。「私のための祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、生活費をあげます(10)」。そしてレビ人がその提案を受け入れると「主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから(13)」と喜ぶのです。霊的な祝福までも、お金で手に入れようとするミカはもちろんのこと、それを承諾したレビ人にも、神の奉仕に対する恐れのみじんも感じられません。

私たちは大丈夫でしょうか?私たちの人生の目的は、自分を喜ばすことでしょうか?それとも主を喜ばせることでしょうか?◆私たちは何を基準にして生きているでしょうか?自分の目に正しいことでしょうか?それとも聖書に啓示されている主の基準でしょうか?◆私たちが愛しているのは、自分の祝福でしょうか?それとも主ご自身でしょうか?主を恐れなさい。主こそ私たちの神です!

そのころ、イスラエルには王がなく、
めいめいが自分の目に
正しいと見えることを行っていた。
(士師17:6,18:1,21:25)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6章33節)

2009年6月13日土曜日

第14回「サムソンが最後に見たもの」 士師記16章21-31節

このサムソンの話は、その他の大士師の記録と比べて、ある点において決定的に異なっています。というのは、他の士師の話では、まず主から遠く離れたイスラエルの民が悔い改め、主に叫び求めることによって、士師が起こされるのですが、このサムソンの話では、ペリシテ人に征服されても、イスラエルの民が悔い改めたという記録もなければ、主に叫び求めた記録もないのです。しかし私たちは、今日の箇所においてその悔い改めのパターンを、サムソン個人の中に見ることができるのです。その悔い改めは、どのようにしてもたらされたのでしょうか?

人はどん底に落ち、痛い思いをしなければ、なかなか悔い改めることができません。例えば放蕩息子もそうでした。彼は財産を湯水のように使い果たし、食べるのにも困りはじめ、豚のえさで腹を満たしたいと思ったその瞬間、我に返りました。その時彼は心の中でこう言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました(ルカ15章)」。この時のサムソンの状況も似ています。彼は信仰深い両親にナジル人として育てられ、たくさんの霊的な資質を受け継ぎながら、その賜物を湯水のように使い果たし、この時は、足には青銅の足かせをはめられ、牢の中で重い臼を引く者にまで成り下がっていたのです(21)。

しかし少しずつ彼に変化が起こりました。髪の毛が再び伸び始めていたのです!前回の箇所で、私たちは「髪の毛とともに失ったもの」と題して学びましたが、彼が失ったものは何だったでしょうか?それは、言ってみれば、髪の毛一本でようやくつながっていた「神様との交わり」でした。彼はデリラにだまされ、自分自身もナジル人としての誓願を軽んじ、結果的に主ご自身を軽んじ、交わりを失ってしまったのです。しかし彼は、どん底に突き落とされることによって、再び「我に返り」、その失った「主との交わり」を、徐々に回復していったのでした(22)。

そして、その日がやってきました。どれくらいの時がたったのでしょう。彼らの偶像ダゴンの前で、盛大なお祭りがもよおされました。彼らはお祭りを盛り上げるために、牢につながれているサムソンを呼んで来て「見せもの」にしようと考えました。そしてサムソンをはずかしめ、優越感に浸り、更に陽気になったのです。その時サムソンは宮の大黒柱に手をかけ、こう祈りました。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです(28)」。

その瞬間、彼に昔の力がよみがえり、大勝利を得たのです。その瞬間、サムソンは天を仰ぎ「神を見た」のではないでしょうか。もちろん彼の肉の目は失われたままでしたが、彼が「神、主よ…」と祈ったとき、彼の霊の目が開け、天からの不思議な力が彼に与えられたのだと思うのです。その祈りは、あの盲人バルテマイの叫びのように、非常にシンプルで素朴な祈りでしたが(マコ10:47)、その結果バルテマイの目が開けたように、最後にサムソンの霊の目も完全に開けたのです。

先日盲目のピアニストが世界的コンクールで金賞に輝きました。ある時、彼はこう言ったそうです。「一度だけ目が開くなら、お母さんの顔が見たい」と。◆どうでしょうか、私たちの心の目は開いているでしょうか?私たちは、その心の目で何を見たいと切に願っているでしょうか?◆誰でも、まず心の中の汚れた目(罪の芽)をえぐりださなければ、主を見ることはできません。しかし悔い改めて、その目をえぐり出し、「神、主よ、私を憐れんで下さい」と祈る者は、心の目で主を見るのです。そして主を見る者は、自分に死んで、いのちを得るのです。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、
えぐり出して、捨ててしまいなさい。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
マタイ5章29、8節(要約)

2009年6月3日水曜日

第13回「髪の毛と共に失ったもの」士師記16章1-22節

信心深い両親のもとにナジル人として育てられたサムソン。しかし前回の所では、少しずつ神様から離れていくサムソンの様子を見ました。それは彼自身の弱さの故ではありましたが、同時に、最愛の人からの裏切りや、奴隷根性に堕した同胞に対する失望の故でもありました。彼の心は、そのような感情が複雑に入り組んで、カラカラに渇いていました(15:18)。そんな時、彼は、まるで鮭が生まれ育った川に帰ってくるように、再び神様との交わりに帰ってくるのでした(15:19)。

今日の箇所は、遊女の所に入るサムソンの姿から始まっています。その直前の15章20節には「(サムソンは)20年間イスラエルをさばいた」とありますから、おそらくイスラエルの士師(さばき司)としての仕事を立派に果たしていたのでしょう。しかし彼は相変わらず「恋多き荒(あら)くれ者」であり、ペリシテ人の遊女のもとに通うのでした。ペリシテ人たちは町の門で一晩中待ち伏せしたのですが、彼らをあざ笑うかのように、サムソンは「2本の門柱をかついで(62キロ離れた)ヘブロンの頂に運び(3)」ました。その怪力は尋常ではありませんでした。

そこでペリシテ人は、その尋常ではない怪力の秘密を知りたがりました。きっと、まともに立ち向かっても勝てないと悟ったのでしょう。そこで彼らはティムナの件で成功したように(15:16)、サムソンが好意を寄せる女性を利用することにしました。彼女の名前はデリラ、訳せば「思わせぶりをする」。彼女はしきりに彼の怪力の秘密を問いただしました。3回まで、彼は上手に交わすことができていましたが、4回目にデリラが泣きながら「あなたは私を愛していない」とすがると、彼の心もついに折れてしまいました。「サムソンは死ぬほどつらかった(15)」との言葉が印象的です。怪力サムソンも、女性の涙にはなすすべもなかったのです。

それにしても、なぜ男性は「女性の涙」に弱いのでしょう?「本当にこの人と結婚してもいいの?」の著者であるマレ牧師は「男性には生まれながらのヒーロー願望がある。女性の涙はそのヒーロー本能にスイッチを入れる」と説明します。しかし時にはそれがプラスに作用せず、へそを曲げてしまったり、妻以外の女性の涙にも反応し、その女性を自分が守ってあげなければと勘違いしてしまったりすることもあるのだとか。サムソンはそういったマッチョ本能が人一倍強かったのかもしれません。彼に限らず全ての男性は、自分の花嫁とキリストの花嫁である教会を守るという「聖い目的」のために、その本能を用いたいものです。また女性も、デリラのようにではなく、「聖い真心」から、美しい涙を流したいものです。

そして彼は、髪の毛をそり落とされ、力を失ってしまいました(19)。ここで私たちは、サムソンの髪の毛自体に不思議な力が宿っていたかのように勘違いすべきではありません。彼は髪の毛を失ってしまったからではなく、異国の女との淫行にふけり、ナジル人の尊厳(自尊心)を失い「神様との交わりを失ってしまったから」力を失ってしまったのです(新聖書注解)。髪の毛はあくまで「神様との交わり」の象徴にすぎません。裏を返せば、その髪の毛が「また伸び始めた(22)」とは…、それはまた次回の話。今回は「主が既に自分から去ってしまったのに、以前と同じように、ひとゆすりしようとした」彼の姿に重大な警告が含まれています。

私たちは「生きた主との交わり」を持っているでしょうか?サムソンがカラカラに渇いて主に呼び求めたように、私たちも主に渇き、主を呼び求めているでしょうか?◆その交わりなくして、形だけ昔と同じようにしても、もうそこに「いのち(力)」はないのです。私たちの力は、生きた主との交わりから来るのです!

わたしはぶどうの木で、
あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、
わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは
何もすることができないからです。
(ヨハネ15章5節)

2009年5月27日水曜日

第12回「サムソンの渇き」 士師記14章、15章

何度も言うように、士師記は不可解な書物です。士師は神の選びの器なのですが、一人一人を見れば決して模範的な信仰者ではなく、むしろ欠けだらけで普通の(いや普通以下の)人間だからです。中でもサムソンの人間くささは群を抜いています。しかしそれゆえに、彼は歴史を超えて多くの人に愛されているのです。

今日の箇所でサムソンは恋をします。彼は獅子をも引き裂く怪力の持ち主でしたが、同時に激しいまでのロマンチストであったようです。今日の箇所で、彼はペリシテの娘に見て、恋をし、まだよく知らないのにもかかわらず「あの女を私の妻に」と願い出るのです(14:2)。まさしく一目惚れです。ですが彼の両親は反対しました。なぜなら当時、異邦人との結婚は禁じられていたからです(出34:16)。しかし彼は「あの女が私の気に入った」と強引に押し切ってしまうのです(14:3)。

その背後には主の隠されたご計画がありました(14:4)。ロマンスといえば聞こえはいいのですが、これはサムソンの「わがまま」と「激しい情欲」から出たことです。また両親が危惧したように、これは明らかな律法違反です。しかし神様はそういった人々の弱さを用いても、ご自身のご計画を先に進めることのできるお方なのです。かつてヨセフは「あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました(創50:20)」と言いました。でもだからといって私たちは「それならば悪を行おう」と言ってはいけないのです(ロマ3:8)。

神様のご計画とは何だったのでしょうか?それは「ペリシテ人の手からイスラエルを救うこと」です。もちろん神様は正義と信仰によっても、イスラエルを救うことはできました。しかしこの時のイスラエルの人々は、まるで「パレスチナ人に支配されていることを当然のように感じ」「奴隷根性に陥っていた」のです(15:11)。聖書には「この人たちが黙れば、石が叫ぶ(ルカ19:40)」とありますが、イスラエルが立ち上がろうとしないから、主は欠けだらけの人間(サムソンなど士師たち)を用いられ、また人々の悪意や裏切りを通したりして、ご計画を実行に移されたのです。その方法までもが主の御心であったのではありません。

サムソンは結婚したばかりの妻に裏切られました。もちろん妻にも言い分があり、ペリシテ人仲間に「さもないと、あなたの父の家を焼き払う」と脅されたからだと言うでしょう。とにかく彼女は「あなたは私を愛してくださいません(14:16)」と夫に泣きすがりだましたのです。皮肉なことに、結局、彼女も彼女の父も、その仲間の手によって火に焼かれてしまいます(15:6)。いろいろな罪がありますが、神様は特に、愛を利用した卑劣な行為を忌み嫌われます。もしこの時、この女がすべての事情を正直に夫に話していたら事態は違っていたのかもしれません。

一連の報復行為を終えた時、サムソンは「ひどい渇きを覚え」ました。彼は何に渇いたのでしょう。イエス様は「わたしは渇く(ヨハ19:28)」とおっしゃられましたが、それは罪を背負い、父なる神と断絶された「霊的な渇き」でした。もしかしたらサムソンも、ナジル人でありながら報復に手を染め、徐々に神様から離れていく「霊的な渇き」を感じたのかもしれません。また彼は、あれほど激しく愛した人に裏切られ、同胞には見捨てられ、人からの愛に渇いていたのかもしれません。彼は主を呼び求め(15:18)まるで震える小犬のように安らぎを得るのでした。

完全な人はいません。強く見える人が本当は弱かったり、激しく怒っている人が本当は深い孤独を感じていたり、人の心は複雑で、時には自分でも、自分の心が分からなくなってしまうほどです。とにかく「渇いたら」すぐ主に叫び求めることです。主はあなたの渇きを癒すことがお出来になる、ただ一人のお方なのです。

主は、主を呼び求める
すべての人に対して
恵み深くあられるからです。

「主の御名を呼び求める者は
誰でも救われる」のです。
(ロマ10:12-13要約)

2009年5月15日金曜日

第11回「サムソンの両親」士師記13章1-25節

さて、私たちはいよいよ、士師記最後の大士師サムソンについて学びたいと思います。サムソンといえば、その怪力とともに、時折見せる、ひどい悪ふざけと、性的な放縦さによって有名な人物です。人は、彼のような人を見ると「親の顔も見てみたい」というかもしれませんが、今日は、そのサムソンの両親の話です。

まずは、サムソンの母親です。彼女については、聖書の中に、名前も記されていません。ただ「不妊の女」とだけ紹介されています。聖書の時代、出産は女性にとって「特別な祝福のしるし」とされていましたから、彼女は長年、非常に肩身の狭い思いをしてきたことでしょう。その彼女のもとに、主の使いが現れて「あなたは身ごもり、男の子を生む」と告げたのでした。それを聞いて、彼女はとても驚いたことでしょう。いやそれを通り越して「恐ろしかった(6)」ことでしょう。

主の使いは、生まれてくる子供が「ナジル人」であると言いました。ナジル人とは、民数記6章にその詳細が記されていますが、一定期間、もしくは生涯、主への誓願を立てている人の事でした。その名前は「聖別する(ナーザル)」から来ています。またナジル人には、①酒を飲まない、②汚れたものを食べない、③頭にかみそりを当てないなどの、禁令を厳守することも求められました。しかも、今日の箇所によれば、その父母も、①と②を守るように求められているのです(4,14)。

なぜでしょうか?それはお腹の子供が、生まれながらのナジル人(聖別された者)だからです。聖なる命を内に宿す者として、その母親はもちろん、その父親も、出産までの間、聖く過ごすことが求められたのです。私たちも同じです。私たちのお腹の中にナジル人はいませんが、聖なる御霊が宿っておられます。私たちは「聖霊の宮」なのです(Ⅰコリ6:19)。ならば私たちも普段から聖さに気を配り、罪を離れ、聖霊の宮であることを意識して過ごすべきではないでしょうか?

その夫の名はマノア(休息・平安)と言いました。彼は、実に立派な信仰の持ち主でした。彼は最初、妻から不思議な知らせを聞いたときにも、疑うことを一切せず、むしろ「その子を、どのように育てたらよいか」ということを心配しました(8,12)。また彼は、すべての感謝を、主への全焼のいけにえという形でささげることも忘れませんでした(19)。またこれは想像ですが、マノアが最初から妻の言うことを素直に信じることができたのは、普段から、妻に対する深い信頼と尊敬があったからではないでしょうか。主はこの夫婦を選び「不思議」を行われました(18)。

このサムソンの両親の姿勢に、私たちも見習いたいものです。彼らは自分の子を、自分勝手な悟りによって育てるのではなく「主からの賜物として」「どうやって育てたらよいのですか」と真剣に尋ね求め、信仰と恐れ(畏れ)をもって育てました。またマノアの妻は、出過ぎず、非常に控えめではありましたが、実は夫よりも深い霊的な洞察をもっていました。夫は、最後の方まで、主の使いに気づいてはいませんでしたが(16)妻は最初から気付いていました(3)。また夫が「神を見たので必ず死ぬ(22)」と取り乱す時にも、妻はその背後にある「深い神様の憐れみ」を読み取り、賢く落ち着いて、夫の支えになることができました(23)。

私たちはどうでしょうか?自分勝手な悟りや基準で、子供を育ててはいないでしょうか?自分勝手な願いを押し付けていないでしょうか?◆大切なのは、まず主に尋ね求めることです。そして子供の前に、まず自分自身が主の前に聖く歩むことです。そして最後に、夫婦が愛し合い、尊敬しあっていることです。◆主はそういった家庭を祝し、そういった家庭を通して、不思議を行ってくださるのです。

父たちよ(もちろん母も)。
あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。
かえって、主の教育と訓戒によって
育てなさい。(エペソ6章4節)

2009年4月24日金曜日

第10回 「後出しジャンケン」 士師記12章1-7節

前回私たちは「ならず者の頭」から「ギルアデの首領」にまで上り詰めたエフタについて学びました。彼の性格は、喧嘩っ早く、取引上手で、頭に血が上ると大きな(軽率な)言動に出てしまう、そんなところがありました。しかし彼は、その軽率さによって大きな代償を払うことになりました。ひとり娘を失い、心に深い傷を負うのでした。その傷口は、きっとまだズキズキ痛んでいたことでしょう。

その傷口に、塩をすり込むような出来事が起きました。突然エフライムが、兵を引き連れてエフタの目の前に現れ、こう言うのでした。「なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う(1)」と。それは事実無根の「言いがかり」でした。それまでもギルアデは、アモン人に攻め込まれた時、エフライムに援軍を頼んできたのに、彼らは助けてくれなかったのです(2-3)。

以前にも似たようなことがありました。ギデオンがミデヤン人に対し勝利をほぼ手中に収めた時、突然エフライムが遅れて参戦して来て「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは(8:1)」と言ったのです。そこに見え隠れするのは「汗(血)を流さずとも分け前にあずかろうとする」大部族のおごりです。もしかしたらエフライムは、ギデオンの件で味をしめ、エフタ(ギルアデ)に対しても脅しをかけ、何かを引き出そうとしたのかもしれません。しかしそうは上手くいきませんでした。

エフタはギデオンと違い、徹底抗戦に打って出たのです。ギデオンは「私たちは、あなたがた(エフライム)に比べたら、とるに足らない者です(2-3)」という謙遜さによってエフライムの怒りを和らげました。しかし娘を失った悲しみで心が満ちていたエフタは、理不尽な要求をするエフライムに、おべっかを使うこともなく怒りの炎を燃やしました。しかもエフライムがギルアデのことを「金魚のフンの臆病者」呼ばわりをしたことが(4)怒りの炎に大量の油を注いでしまいました。

確かにエフライムのやったことは、人の道に反します。彼らの方こそ臆病者です。しかし聖書にはこうあります。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる(箴言16:25,32)」と。人は自分の方が正しいと思うから怒るのです。しかしその怒り(正義)を突き詰めていくと、破滅に至るのです。ギデオンが全部正しかったとは思いません。彼もペヌエルとスコテという同胞を虐殺しました(8:4-17)。しかしエフライムへの対処においては、ギデオンの方がエフタよりも、一枚も二枚も上手であったことは、認めざるをえません。

人の怒りは神の義を実現するものではありません。エフタのやり方が、また何とも残忍でした。彼は「シボレテ(川の流れ)」と言わせ、相手になまりがあれば一人一人殺していったのです。恐怖に満ちた魔女狩りです。その結果4万2千人のエフライム人が殺されました(7)。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは何という幸せ、何という楽しさであろう(詩133:1)」。この理想はどこへ行ってしまったのでしょうが。時には「人の正義」が、人と国を不幸にするのです。

私たちはどうでしょうか?卑劣なことをされたり、言われたりしたら、当然自分には怒る権利があると思うでしょう。しかし、その終わりは「死の道」であることを私たちは覚えておかなければなりません。◇両方とも傷つくのです。いや、周りのみんなを巻き込んで共同体を破壊します。本当の勇気とは何でしょうか?

だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、
怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、
神の義を実現するものではありません。
(ヤコブ1章19ー20節)

2009年4月21日火曜日

第9回「軽率な誓願」 士師記11章1-40節

ギデオンの後イスラエルは再び主に背いてしまいました。彼らは主を捨ててカナンの神々に仕えたのです。そこで主はアモン人を興され、イスラエルを苦境に追い込まれました(10:9)。するとようやく彼らは悔い改め主に叫んだのです。そんな彼らを見て「忍びなく思われた(10:16)」主は、一人の人物を起こされました。

その名はエフタでした。彼はギルアデの生まれで、遊女の子でした。成長した彼は異母兄弟たちに嫌われ、家から追い出されてしまいました。行き場を失った彼は、小都市国家トブに流れ着き、いつの間にか彼の周りには「ごろつきたち」が集まるようになりました(3)。そんな彼らは砂漠や荒野を旅する商隊を襲って、次第に有名になっていったと考えられています。つまりエフタとは、今日でいうところの「札付きのワル」「ギャングスター」「ならずもののかしら」であったのです。

そんな彼の所に思わぬ話が舞い込んできました。アモン人がまたイスラエルに戦争をしかけてきたのです。危機感を募らせたギルアデの長老たちは、苦肉の策としてエフタに首領になってくれるよう頼みに来ました。でもエフタは直ぐには引き受けませんでした。当然です!かつて彼らはエフタに何をしたのでしょうか?利用するだけ利用して、捨てられることはないでしょうか?そこでエフタは主の前に契約を結ぶことを条件として、その任を引き受けることにしたのです(9-11)。

双方の外交努力(12-28)もむなしく戦争が始まりました。出陣の際、エフタは主に一つの誓願を立てます。その内容は「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます(30-31)」というものでした。しかし人間を全焼のいけにえとして捧げるという残虐な行為は、忌まわしきカナンの習慣であり、律法では「真似てはならない」と堅く禁じられています(詩106:38、申12:29-31)。

エフタの軽はずみな誓願は、思わぬ悲劇を彼自身にもたらすことになりました。なんと、アモン人との戦いに勝利して帰ってくると、彼を出迎えたのは、まだ若い彼の一人娘だったのです…。しかもタンバリンを手にとって、喜び踊りながらお父さんを迎える彼女の姿が、より一層その悲劇を増し加えています。エフタはその娘の姿を見て、胸の痛みを抑えきれず、思わず自分の着物を引き裂きました。この悲劇は、その後も長くイスラエルでも長く語り継がれることになりました(40)。

この聖書の箇所は本当に難解です。ヘブル人への手紙では「エフタについても話すならば時が足りないでしょう。彼は信仰によって国々を征服し、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました(11:32-34要約)」と、エフタの信仰が評価されています。しかしもし評価するならば「お父さま。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから(36)」と告白した娘の信仰こそ評価されるべきではないでしょうか?

仮に、最後まで主に従い、誓願を果たしたエフタの信仰が立派だったとします。しかしもっと立派なのは、そのような誓願を立てず、ただ無条件に主に従うことなのです。◇私たちも「主よ、もし助けてくれたら○○します」なんて軽率な誓願(神様との取り引き)をしないよう気をつけなければなりません。そのような条件を付けず、ただ「はい」は「はい」と、素直に主に従うことが大切なのです。

あなたがたは
『偽りの誓いを立ててはならない。
誓ったことを主に果たせ』
と言われていたのを聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。
決して誓ってはいけません。
『はい』は『はい』、
『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。
それ以上のことは悪いことです。
(マタイ5:33-37要約)

2009年3月28日土曜日

第8回「偶像礼拝、堕落の入口」8章22~35節

ギデオンはまたの名を「エルバアル」と言いました。それは彼が、父の家のバアル祭壇を壊し、アシェラ像を切り倒したからです(6:25-32)。彼はそのように、偶像と決別することによって士師の人生をスタートさせました。それからの活躍は、今まで学んできた通りです。しかし彼は晩年、再び偶像礼拝の罪へと逆戻りしてしまうのです。いったい彼の身に、そして心に、何が起きたのでしょうか?

彼は最初、自分の「欲」を抑えることができていました。ミデヤンとの戦いの後、興奮した民はギデオンに「私たちを治める王になって欲しい」と願いました。きっと、厳しい現実の中で、力強いリーダー(王)にすがって生きたいと願ったのでしょう。しかしギデオンは「主(ご自身)があなた方を治められます」と断わりました。それは正しい判断でした。なぜならイスラエルという「選びの民」は、地上の権力に支配される民ではなく、主と主の言葉によって治められる民だからです。

しかしギデオンは、その後ちょっとした心の隙をつかれてしまいました。彼はこう言いました。「ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪(金)を私に下さい(24)」と。そして、その金でエポデを作ったのです。エポデは本来、祭司が祭儀において着用するための聖なる装束でした。しかしギデオンとイスラエルは、それをまるで偶像のように扱い、その前で淫行を行ったのです。思い起こしてみれば、元々ギデオンは「目に見えない神」を信じられず「しるし」を求める人でした(6章)。

これは、アロンの過ちと非常によく似ています(出エジ32章)。アロンは民に言いました。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい」と。そしてアロンはそれで金の子牛を造り、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言ったのです。そして民は、その子牛の前で、飲み食いし、(不道徳に)戯れました…。つまり偶像礼拝とは、単に他の神々を拝むことだけではなく、真の神(ヤーウェ)を自分の都合の良い形にし、てっとり早く礼拝することも含んでいるのです!

霊的な姦淫は、肉的な姦淫への入り口でもあります。ローマ人への手紙にはこうあります。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました(1:21-24)」と。ギデオンの堕落も、「金銭を愛すること」から始まり、「霊的な姦淫」、そして「肉体な姦淫」へと、エスカレートして行ったのです。

そのギデオンには大勢の妻がいました(30)。これは「ふたりは一体となる(創2:24)」といわれた、本来の結婚のかたちとは大きくかけ離れていました。その妻により彼には70人もの子供がいましたが、その子供がこの後、問題となります(9:5)。最初は気が小さく、主の励ましによって一歩を踏み出した「士師」ギデオン。しかし彼は、いつの間にか、大きく信仰の道を踏み外してしまいました。

あなたは大丈夫ですか?いつの間にか、偶像礼拝に陥っていませんか?金銭を愛すること、それがすなわち偶像礼拝の始まりです。なぜなら、その「むさぼり」こそが「偶像礼拝の正体」だからです(コロ3:5)。◆またあなたは、真の神への恐れを失い、自分の都合のよい、てっとり早い礼拝で満足していませんか?それもまた立派な「偶像礼拝」なのです!堕落の入口は、身近な所にあるのです!

金銭を愛することが、
あらゆる悪の根だからです。
ある人たちは、
金を追い求めたために、
信仰から迷い出て、
非常な苦痛をもって
自分を刺し通しました。
Ⅰテモテ6章10節

2009年3月23日月曜日

第7回「怒りのコントロール」8章1~21節

さて、いつもここから始まりますが、元々ギデオンは「マナセの内では最も弱く、父の家でも一番若い者(6:15)」でした。しかしその彼が主に選ばれ、主のしるしをいただき、立ち上がったのです。そして前回は、わずか300人を率いて、13万5千人のミデヤン人を追い詰めました。彼は、その後どうなっていくのでしょうか。

勝利をほぼ手中に収めた時、内部からの批判が巻き起こりました。まずはイスラエル民族の中で、最も強いエフライム族からの嫉妬でした。彼らは言いました「なぜ私たちに呼びかけなかったのか(1)」と。自分たちより弱い、マナセ、アシェル、ゼブルン、ナフタリの連合軍に(6:35)戦利品を独占されてしまうでも思ったのでしょうか。またガド族の中に住んでいたスコテとペヌエルの人々も、ギデオンの軍団がパンを求めた時、それを冷淡に断わりました(8:6)。彼らは一緒に戦わないばかりか、傍観者を決め込み、疲れきった軍団を見てさげすんだのです。

その時ギデオンの怒りの炎が激しく燃え上がりました。彼はスコテの人々に「荒野のイバラやとげで踏みつけてやる」と、またペヌエルの人々に「私が無事に帰ってきたら、このやぐらをたたき壊してやる」と呪いました。そして、それを実行しました。すなわちギデオンは、イバラやとげでスコテの人々を拷問し、ペヌエルの人々を虐殺したのです(16-17)。その頃の彼に以前の面影はなく、人を殺すことにも慣れ、躊躇する長男エテルの前で二人の王にとどめを刺すほどでした(21)。

しかしそれは明らかに、ギデオンの越権行為でした。神様は、あくまで「イスラエルをミデヤン人の手から救え。(そのために)私があなたを遣わすのではないか(6:14)」と命じられたのです。スコテとペヌエルの人々は、はっきりとは記されていませんが、おそらくガド族のイスラエル人であると言われています。とすると、彼は自分の思い通りにならないからと、同胞のユダヤ人をこのように扱ってしまったのです。神様はそんなことを、一言も許してはいません!

権力と力をもつと人は変わります。自分の使命達成のためなら、多少(!?)人々が痛み苦しんでも、それが気にならなくなるのです。そればかりは、自分に逆らう者や、邪魔をする者、特に自分を侮辱にする者には「血の復讐」をしても「やむなし」と考えるようになってしまうのです。何と恐ろしいことでしょうか!私たちは、どんなに小さな権力や地位であっても、それが与えられたら「人一倍謙遜であるように」気をつける必要があります。それができないと、主に用いられた人であっても、ギデオンのように、人生の坂を転げ落ちて行くことになります…。

ダビデも同じ誘惑を感じました。彼は自分をさげすんだナバルに、剣で復讐をしてもやむなしと考えましたが、その時はナバルの妻アビガイルの賢いとりなしもあり理性を取り戻すことができました(Ⅰサム25章)。ですがその後、自分の欲望のためにバテ・シェバと関係をもち、夫ウリヤを間接的に殺してしまいました(Ⅱサム11章)。そのような失敗を通して彼は「権力の恐ろしさ」と「自分の罪深さ」を思い知ったのです。その後の彼は驚くほど柔和な者とされました(Ⅱサム16章)。

今のあなたに大きな権力はないかもしれません。しかし心は「王様」のようになっていないでしょうか?◆あなたは自分の事ばかりを考え、周りの人々の「痛み」や「苦しみ」に鈍感になっていませんか?人(家族・友人)を自分の思い通りに動かそうとしていませんか?また人の悪(侮辱)に対しては復讐してもよいと勝手に考えてはいませんか?◆そんな自分を発見するのなら、あなたは非常に危険なところにいます!私たちに復讐する権利はないことを、忘れてはいけません。

愛する人たち。
自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする、と主は言われる。」
ローマ12章19節

2009年2月26日木曜日

第6回「神様の選考基準」7章1~25節

前回の箇所で主によって選ばれたギデオン。しかし元をたどれば「彼の分団はマナセの内で最も弱く、彼は父の家では一番弱い(6:15)」者でした。そこで彼は「これが本当に主ご自身から出たことであるかどうか」を確かめるために、主に再三にわたって「しるし」を求めたのです。そして主は、ことごとくその願いを聞き入れられました。彼の不安は消え去りました。いよいよ「戦」の始まりです!

ギデオンたちは「ハロデの泉」の近くに陣をしきました(1)。ハロデとは、「おののき」という意味です。そこで主は突然こう言われました。「あなたと一緒にいる民は多すぎる。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に誇るといけないから(2)」と。そこで主による選考が始まるのですが、主は最初「恐れおののく者はみな帰りなさい(3)」と命じられました。その結果、2万2千人が帰ってしまい、1万人のみが残りました。敵は海辺の砂ほどたくさんいるのに…(12)。

なぜ主は「恐れおののく者はみな帰れ」と命じられたのでしょうか。申命記にその理由がありますが、そこには「戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから(20:8)」と記されています。つまり、恐れおののく者がいると、その「恐れ」が伝染するというのです。確かに聖書には、弱気な言葉を聞いて、心がしなえてしまう民の姿が、しばしば登場します(民13,14章)。しかしその反対もまた真実です。信仰に基づいた勇敢な言葉は人々の心を強め、勇気を与えるのです。

続いて主は、水辺にて民を試されました。その選考基準は非常にユニークで「犬のように、ひざをついて舌で水を飲んだ者は失格とされ。手を口に当てて水をなめた者は合格(5)」とされたのです。なぜでしょうか。それは戦場においては、いつどこから敵が襲ってくるか分からないからです。そんな時に犬のようにカブガブ水を飲む「油断した者」は、兵士としてふさわしくないのです。兵士とは、水を飲むときも目を光らせ、片手は槍から離さないものです。残った者は僅か3百人でした。最初は3万2千人いたのに1パーセント未満に減ってしまいました。

ギデオンはその3百人で、13万5千人のミデヤン人に挑みました(8:10)。その数なんと450倍です!しかも彼らには、数えきれないほどの「らくだ」がありました(6:5)。人間的に考えたら勝ち目はありません。しかし主は、まさにそのことを明らかにするために、民を選考したのです。人間の無力を明らかにし、神の力を明らかにするのが、神様の方法です。ギデオンたちは敵に攻め入りました。その前に主が夢によって、敵に恐怖心を植え付けていたので(13)、敵はパニックに陥り同士打ちを始めました(22)。こうして彼らは、敵を壊滅状態にしたのです。

私たちは、主の兵士です。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい(Ⅰテモ6:12)」と聖書には勧められています。クリスチャン人口は、日本の中で1パーセント未満ですが、それでも勇敢である必要があります。そこで質問です。あなたは神の国の兵士として「ふさわしい者」でしょうか?それとも、不信仰な言葉と弱音によって、兄弟姉妹の士気を下げてしまう者でしょうか?油断をして、敵を見失い、挙句の果てに「同士打ち」をしてしまう者でしょうか?

もし相応しくないと思うなら、あなたは合格です。もちろん前向きな信仰や、生活の中でも、本当の敵を見失わないことは大切です。◇しかし主の兵士として一番ふさわしくないのは、すぐに「自分の手で自分を救った」と勘違いする傲慢な者なのです。私たちが弱い時ほど、実は信仰によって勇士となるチャンスなのです!

これ以上、何を言いましょうか。
もしギデオン、バラク、サムソン、
エフタについても話すならば、
時が足りないでしょう。
彼らは、信仰によって、
弱い者なのに強くされ、
戦いの勇士となりました。
へブル11章32-34節(抜粋)

2009年2月19日木曜日

第5回「主を試みる ギデオン」6章1~40節

今日の箇所は、士師記の中でもっとも記述の長いギデオンについてです。それはあのサムソンよりも長いのです。またこの「ギデオン」の名は、あの聖書を配布する「ギデオン協会」によっても有名になりました。さぁ、ギデオンはどのような信仰をもって、どのように活躍したのでしょうか?一緒に見ていきましょう。

ギデオンの時代、イスラエルは再び非常に弱っていました。ミデヤン人はイナゴの大群のようにしてやってきて、イスラエル人の町を、滅茶苦茶に荒らしてしまいました(5)。そこまで国が荒廃した原因はイスラエルの不信仰にありました。彼らはデボラ以後、再び主から離れ、「バアル」や「アシェラ」の神々を拝んでいたのです。ギデオンも、そのような環境にどっぷりつかって育ってきました(25)。しかし、主のイスラエルに対する愛(熱心)は、変わることがありませんでした。

イスラエルが主に叫び求めると、主はギデオンを士師として選ばれました。しかし当のギデオンは、まったく自信がなく、召された時も、ミデヤン人から逃れ、隠れるように酒ぶねに身を潜め、小麦粉を打っている時でした。そんな彼に対し、主の使いは「主があなたと一緒におられる(12)」と告げられました。しかしギデオンは全く喜べないどころか「主の栄光はもう過去のもので、主は私たちを見捨てられたのだ」「私は父の家で一番弱く一番若い」と言い逃れをするばかりでした。

確信を求め、ギデオンは主を試みました。彼はこう願いました。「お願いです。私と話しておられるのが、あなたであるというしるしを見せてください(17)」と。一見、拙い信仰から出た願いのようです。しかし主はその願いをも聞かれ、彼の目の前で不思議を行われました(21)。それに加え、彼の父にも変化が起こりました。彼は父が熱心に拝んでいた偶像を壊してしまったのですが、父は彼を責めず、町の人々から彼を守ったのです(31)。また彼が角笛を吹くと、多くの民がギデオンに従うためにやってくるではありませんか!その全てが「しるし」でした。

しかしギデオンは、それでも確信をもてませんでした。そこで彼は更に二度も、主を試みたのです。有名な羊の毛の話です。一度目は、羊の毛だけをつゆで濡らし、地面は乾いているようにと。そして2度目は、羊の毛だけは乾いていて、地面は濡れているようにと(37-40)。身勝手で、主をいたずらに翻弄しているかのような願いです。しかし主はそのいずれにも答えられました。私たちの不信仰を受け止め、必要ならば「しるし」さえも与えてくださる主の憐れみがそこにあります。

聖書の中で一か所だけ「主を試してみよ」と勧められている個所があります(マラ3:10)。献金の箇所です。もしも私たちが精一杯捧げるなら、主は溢れるばかりの恵みをもって報いてくださるのでだと。またトマスは「イエス様の復活のしるしを見ないと信じない」と言いました。イエス様はそんな彼にも現れ、十字架の傷跡を示されました。これらの箇所を読む時、私たちはもっと積極的に「しるし」を求めてもよいような気がします。「求める者には与えられる(マタ7:7)」のですから。

しかし主の「究極の御心」は別なところにあります。それは私たちが「見ないで信じる者」となることです。主は私たちが思う以上に憐れみ深い方なので、自己中心な要求であっても敢えて答えられることがあります。しかしそれを当然と考えてはいけません。答えるか答えないかは、あくまで「主の主権」に属することなのです。またそこに留まっていてもいけません。私たちは更に成長し、どんな試練の中でも、ただ主を愛するが故に、従う者とならなければいけないのです。

イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネ20:29

2009年2月12日木曜日

第4回「二人の女性と鉄の杭」4章1~24節

今日の箇所は、ある意味において非常に興味深いと思います。というのは二人の女性が用いられ、イスラエルの勝利に貢献しているからです。当時の社会と言えば、徹底的な男性優位(男尊女卑)な社会でした。その中にあって、主が、彼女たちを用いられたことには、どんなメッセージが込められているのでしょうか?

まずデボラはどんな人物だったのでしょうか?彼女は「女預言者」でしたが、いつも、なつめやしの木の下に座りイスラエルの民をさばいていました。それが何とも神秘的な雰囲気をかもし出していますが(5)、当の彼女自身は、何か特別な人物であったわけではありません。彼女は「ラピドテの妻(4)」と紹介されていますが、ごく普通の、妻としての役割もちゃんと果たしていたと考えられています。

イスラエルの将バラクは、そんな彼女に助けを求めました。軍隊と言えば、男社会の中でも、特に上下関係の厳しいところです。バラクはそのトップにいたのですが、その彼が、女預言者デボラに「もしあなたが私と一緒に行って下さらないなら、行きません(8)」と懇願したのです。もちろんそれは、鉄の戦車900両を有する敵が(3)それほど強大だったということでもありますが、自分の無力を認め、素直にデボラに助けを求めた彼の姿は、謙遜という意味において立派でした。

私たちもみな、本来そうでなければいけないのです。多くの場合私たちは、試練に遭遇すると、あれこれ自分の知恵と力で対処し、どうにもこうにもいかなくなってから「仕方がなく」主により頼むのです。しかし私たちはバラクのように、最初から自分の無力を認め「ともにいて下さる主と(マタイ28:20)」ともに困難に立ち向かうことが大切なのです。その時主ご自身が勝利を取ってくださいます(15)。逆にいえば、この主がともにおられるならば、何も恐れることはないのです!

もう一人の女性はケニ人「へベルの妻ヤエル」でした。ある日突然、敵将シセラが、命からがら逃げ込んできました。そしてヤエルに「一杯の水」を求めたのです(19)。彼女は丁寧に応対し、毛布をかけ、乳を与えました。すると彼は安心し、熟睡してしまいました。その時、ヤエルは鉄の杭をもってシセラの「こめかみ」に打ち込み、一撃にして暗殺してしまいました(21)。彼女の夫「ケニ人へベル」は、モーセの義兄弟の子孫であることから、おそらくヤエルも、何らかのかたちで真の神信仰をもっていたと推測されます(11)。今日の箇所で主は、二人の女性を通して勝利されることにより、ご自身の栄光を明らかにしてくださいました(9)。

このような不意打ちがいつも賞賛されているのではありません。ここで学ばなければいけないのは、むしろ敵将シセラのようにならないように、ということでしょう。彼は「一杯の乳」を飲み、油断し、熟睡してしまいました。もし私たちが、試練の中で不安を覚え、疲れ果て、霊的な渇きを覚えるならば、その時にこそ、私たちは、主に「生ける水」を求め、飲み、目を覚ましていなければならないのです。そうしないと、私たちはいとも簡単に、敵(サタン)に隙を突かれてしまいます。

私たちの主は、勝利の主です。この方はやがて来られ、サタンのかしらを完全に打ち砕かれます(創世3:15、ロマ16:20、黙示12:17)。◆しかもそれだけではなく、イエス様はもう既に十字架によって、サタンのこめかみを打ち抜いてくださったのです。◆もし私たちが、この方を信頼し、この主とともに立ち向かうならば、私たちはどんな試練の中においても、圧倒的な勝利者とされるのです!

私は見る。しかし今ではない。
私は見つめる。しかし間近ではない。
ヤコブから一つの星が上り、
イスラエルから一本の杖が起こり、
モアブのこめかみと、
すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。
民数記24章17節

2009年1月29日木曜日

第3回「主の勇士、左利きのエフデ」 3章12~30節

私たちは士師記を読むときに、ある一つのパターンを見出します。まず最初に、いつもイスラエルが主の目の前に悪を行い、カナン人に支配されてしまうのです。その中で、彼らは主に呼ばわります。すると主は士師を遣わされ、イスラエルを救われます。でもまたしばらくするとイスラエルは逆戻りをし、支配されてしまうとい繰り返しです。ある人は、そんなイスラエルのことを、「主が遣わされた家庭教師がいなくなると、すぐに落第してしまう劣等学生」と評するくらいです。

今日の個所でもイスラエルは危機的な状況を迎えています。なんと、あのエリコ(別名:なつめやしの町)が、エグロンによって占領されてしまったのです(13)。それは彼らの自尊心を、おおいに傷つけたことでしょう。エリコといえば、まだヨシュアが生きていた時、主がこのカナンの地で最初にイスラエルに与えられた町でした。その町までもが、彼らの不信仰によって、失われてしまったのです…。

その時、ようやく彼らは目を覚ましました。霊的な浮気を繰り返し、カナンの神々に仕えていたのですが、自分たちのことを本当に愛してくださっているのは、【主】だけであることを思い出したのです。そして主に向かって叫び求めました。そんなイスラエルの姿は、私たちの姿とも重なります。私たちもともすれば、主以外のものに夢中になり、主を忘れ、主をないがしろにし、霊的な浮気を繰り返してしまうのです。そして痛い思いをして、やっと主のふところに戻って来るのです。

そんなイスラエルに、主はエフデを与えられました。彼について聖書はあまり多くを語っていませんが「ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデ」とだけ紹介しています(15)。フランシスコ会の注解書によりますと、この文の直訳は「右手(ヤミン)の不自由な子、左利きのエフデ」なのだそうです。もしそれが正しいとすると、彼は単なるサウスポーではなく、右手の不自由な戦闘不能者であり、だからこそ警戒されず、剣を隠し持ったまま、エグロンにも会えたとも考えられます。

それにしても敵の王エグロンとは、何と貪欲な男でしょうか。彼はエフデの外見に油断したのでしょうか?それとも秘密の「みつぎもの」でも、貰えると思ったのでしょうか?エフデが「秘密のお知らせがある」との申し出ると、大した審査もなく、エフデを屋上の部屋に招き入れて二人きりになったのです。彼の死に方が、いかにも、彼の欲にまみれ、油断しきった人生を、物語っているようでした(22)。

その後のエフデの活躍は、圧巻でした。彼は味方の元に戻っていき、山地で角笛を吹きならしました。そして「私の後を追ってきなさい(28)」と全軍の先頭に立ち、一気に山地を下り、敵を攻めとったのです。彼がどんな外見をしていたかは分かりませんが、あまり警戒心を抱かせない(すなわちそれほど猛々しくない)風貌であったことは確かです。しかしその彼こそが、主に選ばれた「士師」だったのです!

あなたは信仰の戦いを立派に戦う「勇士」ですか?人と比べて弱々しいとか、知識がないとか、そういうことは関係ありません。いやむしろ、そういうものは、ない方が良いのです。主はむしろ弱い人を選び、この世のとるに足らない人を通して御業を行われるのです。大切なのはあなたが主の声に従うがどうかなのです。

しかし神は、
知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を選ばれました。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
(Ⅰコリント1章27-29節 抜粋)

2009年1月23日金曜日

第2回「試練の意味」3章1~11節

ヨシュアがまだ生きていたころ、イスラエルはヨシュアと共にカナンの地をことごとく攻めとりました。そして一度は「その地に戦争はやんだ(ヨシュア11:23)」とまで言われました。しかし実際は、ヨシュア自身によって「あなた方の中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々に仕えてはならない。それらを拝んではならない(ヨシュア23:7)」と言われている通り、まだまだ多くのカナン人が彼らの間に残っており、戦いは完全にはやんではいませんでした。

では「その地に戦争はやんだ」との終戦宣言は、間違いだったのでしょうか?そんなことはありません。主の預言には、常に「すでに」と「いまだ」の両面があるのです。イエス様が述べ伝えられた「神の国」は、すでに私たちのただ中にあります(ルカ17:21)。しかしその完全な現れはまだです(黙示21)。同様にカナンも、すでにヨシュアによって与えられたのですが、その完全な征服には、まだ時間が必要なのです。私たちもすでに救われましたが、まだ完成はしていないのです。

イスラエルの場合、カナン征服を遅らせているのは、彼ら自身でもありました。彼らは、自分たちの間に住んでいるカナン人たちを追い払わず、前回学んだ通り、彼らと契約を結んだり、苦役を課すなどして、自分たちの間に残しておいたのです。最初は、それでもうまく彼らを支配し、主導権を握ることができていました。しかし、すぐに形勢は逆転し、イスラエルは、追われる立場になってしまったのです。

また主ご自身が、あえて、約束の完成を遅らせることもあります。今日の個所には「主がイスラエルを試みるために、民を残しておいた(士師3:1)」と書かれていますし、「それは戦いを教え、知らせるためである(3:2)」とも記されています。神様は、私たちの従順を試すために、また私たちが、主の勇敢な弟子として更に成長するために、あえて私たちのために「敵と試練」を残されることがあるのです。

しかし、イスラエルはその後、堕落してしまいました。彼らは、カナンの娘を娶ったり、カナンの息子たちに嫁いだりして、だんだんとカナン人と同化をしていきました。それはただ単に、混血が進められたことが問題であったのではなく、彼らが、自分たちの主を捨て、カナン人の神々(バアル・アシェラ)に仕え、それを拝み、自分たちの主を忘れ、主の目の前に悪を行ったから、問題だったのです(3:6-7)。

堕落の責任を主になすりつけてはいけません。主は、イスラエルが、その試練に耐え抜き、約束のものを得ることを望んでおられたのです。しかし、イスラエルは、その期待を裏切ってしまいました。聖書には「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません(ヤコブ1:13)」とあります。主はあくまで、私たちを愛し、祝福を授けるために、一時の間、試練を残されるのです。

その証拠にイスラエルが主に叫び求めると、主はオテニエルを用意されました。イスラエルが勝利したのは単にオテニエルが勇敢で、力強かったからではありません。彼にも弱さがありました(1:12-15)。しかし主はそれでもイスラエルを愛するが故にオテニエルを主の霊で満たし、彼を通して勝利を与えられたのです。◆あなたにも試練がありますか?ならば、主はあなたを愛し、期待しておられるのです。主はあなたを練り聖め、強め、不動のものとしようとしておられるのです。どうかあなたが耐え抜き、本当の意味での勝利を得ることができますように。

あらゆる恵みに満ちた神、
すなわち、あなたがたをキリストにあって
その永遠の栄光の中に
招き入れてくださった神ご自身が、

あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、
堅く立たせ、強くし、
不動の者としてくださいます。
(Ⅰペテロ5章10節)

2009年1月15日木曜日

第1回「不従順の結果」 1章1~2節、19~2章5節

今日からいよいよ、士師記の学びが始まります。ヨシュア記の学びを始める前、正直に言って「こんなに血なまぐさいヨシュア記から何を学ぶことができるのか」という不安がありました。しかし主は、その中からも私たちに、尊い霊的な教訓を残してくださいました。そして今回、士師記を前にしても、やはり私たちには「このような混沌とした士師記から何を学ぶことができるのだろうか」との不安があります。しかしきっと主は今回も、今この時にしか学ぶことのできない、「大切な何か」を教えられることでしょう。期待し、信仰をもって学びましょう!

「さて、ヨシュアの死後(1:1)」この言葉をもって、士師記は幕を開けています。ヨシュアの死の直前、イスラエルの民はヨシュアに向かい「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います」と誓ました。しかし彼らのその決意も、長くは続かなかったのです。ヨシュアの死後まもなく、彼らは主の命令に背いて、カナンの住民を聖絶せず、彼らと契約を結んで、自分たちの間に残しておいたのです。

その数は最初、少数で、イスラエルは彼らに苦役を課し、コントロールしていました。しかし彼らの間に住むカナン人の数は徐々に多くなり、コントロールしていたつもりがコントロールされるようになり、次第に形勢は逆転していきました。主の使いは彼らに言いました。「彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる(3)」と。それを聞いてイスラエルは声をあげて泣きました。

私にたちにも同じことは起こり得ます。最初は大丈夫なのです。自分でコントロールできているのです。しかしその存在が、じわじわと私たちの心を蝕(むしば)み、気づいた時には、もう自分でもコントロール出来なくなってしまっているのです。いや、それでも気づけばいいのですが、場合によってはまったく気付かず、そのまま「霊的な死(主との断絶)」に至ってしまうのです。サタンは私たちよりも賢いのです。そしてサタンは上手に私たちの心を、主から遠ざけてしまうのです。

「主は本当にそう言われたのですか?」いつもこの一言から始まります。主と主の言葉に疑問を持ち、自分なりの解釈を加え始めるのです。エバは答えました。「(神様は)『それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました(創3:3)」と。しかし実際は「触れてもいけない」とは言われていないし、「死ぬといけない」ではなく「必ず死ぬ(2:17)」言われたのです。主を、やたらに恐くしたり、優しくしながら、人の心は主から離れていくのです。

そして最終的には、主と主の言葉に従えなくなってしまいます。イスラエルも、最初はもっと簡単に考えていたのかもしれません。「主は、本当に聖絶しなさいと言われたのだろうか」「主はもっと優しい方じゃないだろうか」「彼らに苦役を課していれば大丈夫じゃないだろうか」「主もそれくらいは認めてくださるのではなか」と。そしてめいめいが自分の目に正しいと見えることを行なった結果、民全体の心が、主から遠く離れてしまったのです。最初は小さな不従順だったのに…。

あなたは大丈夫でしょうか?本当はすべき正しいことを知っているのに、主の言葉に「私的解釈」を施しながら、背き続けているということはないでしょうか?◆今は大丈夫かもしれません。あなたは、その「不従順の種」をうまく飼い慣らしているかもしれません。しかしそれを放置しておくと、やがてそれは、自分の手にも負えない「魔物(不従順の化け物)」へと成長していく可能性があるのです。◆最初は小さな不従順なのです。しかし、それがもたらす結果は甚大です。

それには何よりも
次のことを知っていなければいけません。
すなわち、聖書の預言はみな、
人の私的解釈を施してはならない、
ということです。
(Ⅱペテロ1章20節)

このことばは真実であり、
そのまま受け入れるに値することばです。
(Ⅰテモテ4章9節)