2009年7月8日水曜日

最終回 「ミカ 神なき神信仰」  士師記17章1-13節

サムソンの後、イスラエルを取り巻く情勢はますます混迷を深めていきます。最後部分の17-21章において、カナンの民との戦いは登場していませんが、その代わりにイスラエルの内部抗争が激化していきます。しかもその不法と背信、略奪と大量虐殺、そして女性をモノのように扱う道徳的腐敗は目も当てられません。時に彼らは、それらを神の名によって、公然と行っているのです。今日登場しているミカは、士師でも預言者でもありませんが、特別に名前が記されています。なぜでしょうか?それは彼の行為が、この時代、イスラエルが陥っていた「神なき神信仰」をよく表しているからです。反面教師です。「神なき神信仰」それは一体一どのような「信仰」なのでしょうか?

まずそれは「形式的な礼拝」に見られます。彼らも真の神様(ヤーウェ)の名を告白していました。そして形だけは同じようにお祈りをささげ礼拝していました。しかしそこに「神の臨在」はなく、あるのは「一応」ヤーウェの名をもつ「彫像や鋳像」だけでした。やっていることはカナンの偶像崇拝そのものでした。イスラエルの民は、異教的なカナンの影響を受け、妥協を重ね、シンクレティズム(宗教混合主義)の罠にはまっていったのです。もはやそれは真のヤーウェ信仰とは似て非なるものでした。異教社会に住む私たちも気をつけなければなりません!

そのような礼拝に欠けているのは何でしょうか?それは「悔い改め」です。ミカはもともと母の銀千百枚を盗んだのです。「母の呪いの言葉」を聞いて、怖くなりそれを返しましたが、彼は果たして自分の罪の大きさ認識し、神の御前で悔い改めたのでしょうか?また母も息子かわいさの余り、返された銀ですぐに偶像を作りましたが、母ならまず子供を悔い改めへと導くべきではないでしょうか?そういった「基準」がなく、ただ「祝福」だけを求めるのが「ご利益宗教」なのです。

そのころのイスラエルは、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていました(6)。この言葉は、士師記の中で3度も繰り返され(17:6,18:1,21:25)、士師記はこの言葉で終わっています。つまりこれこそ、士師記に漂う混沌とした空気の原因なのです。「神なき神信仰」においても宗教的な熱心さはありました。しかし、その中心にあるのは「神様」でなく「自分」なのです。彼らは熱心に主の名を呼びながらも、神様を喜ばせることより、自分を喜ばせることに熱心だったのです。

しかもミカは祭司さえも、自分の祝福のために「雇い」ました。彼は言いました。「私のための祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、生活費をあげます(10)」。そしてレビ人がその提案を受け入れると「主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから(13)」と喜ぶのです。霊的な祝福までも、お金で手に入れようとするミカはもちろんのこと、それを承諾したレビ人にも、神の奉仕に対する恐れのみじんも感じられません。

私たちは大丈夫でしょうか?私たちの人生の目的は、自分を喜ばすことでしょうか?それとも主を喜ばせることでしょうか?◆私たちは何を基準にして生きているでしょうか?自分の目に正しいことでしょうか?それとも聖書に啓示されている主の基準でしょうか?◆私たちが愛しているのは、自分の祝福でしょうか?それとも主ご自身でしょうか?主を恐れなさい。主こそ私たちの神です!

そのころ、イスラエルには王がなく、
めいめいが自分の目に
正しいと見えることを行っていた。
(士師17:6,18:1,21:25)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6章33節)

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