2009年6月13日土曜日

第14回「サムソンが最後に見たもの」 士師記16章21-31節

このサムソンの話は、その他の大士師の記録と比べて、ある点において決定的に異なっています。というのは、他の士師の話では、まず主から遠く離れたイスラエルの民が悔い改め、主に叫び求めることによって、士師が起こされるのですが、このサムソンの話では、ペリシテ人に征服されても、イスラエルの民が悔い改めたという記録もなければ、主に叫び求めた記録もないのです。しかし私たちは、今日の箇所においてその悔い改めのパターンを、サムソン個人の中に見ることができるのです。その悔い改めは、どのようにしてもたらされたのでしょうか?

人はどん底に落ち、痛い思いをしなければ、なかなか悔い改めることができません。例えば放蕩息子もそうでした。彼は財産を湯水のように使い果たし、食べるのにも困りはじめ、豚のえさで腹を満たしたいと思ったその瞬間、我に返りました。その時彼は心の中でこう言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました(ルカ15章)」。この時のサムソンの状況も似ています。彼は信仰深い両親にナジル人として育てられ、たくさんの霊的な資質を受け継ぎながら、その賜物を湯水のように使い果たし、この時は、足には青銅の足かせをはめられ、牢の中で重い臼を引く者にまで成り下がっていたのです(21)。

しかし少しずつ彼に変化が起こりました。髪の毛が再び伸び始めていたのです!前回の箇所で、私たちは「髪の毛とともに失ったもの」と題して学びましたが、彼が失ったものは何だったでしょうか?それは、言ってみれば、髪の毛一本でようやくつながっていた「神様との交わり」でした。彼はデリラにだまされ、自分自身もナジル人としての誓願を軽んじ、結果的に主ご自身を軽んじ、交わりを失ってしまったのです。しかし彼は、どん底に突き落とされることによって、再び「我に返り」、その失った「主との交わり」を、徐々に回復していったのでした(22)。

そして、その日がやってきました。どれくらいの時がたったのでしょう。彼らの偶像ダゴンの前で、盛大なお祭りがもよおされました。彼らはお祭りを盛り上げるために、牢につながれているサムソンを呼んで来て「見せもの」にしようと考えました。そしてサムソンをはずかしめ、優越感に浸り、更に陽気になったのです。その時サムソンは宮の大黒柱に手をかけ、こう祈りました。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです(28)」。

その瞬間、彼に昔の力がよみがえり、大勝利を得たのです。その瞬間、サムソンは天を仰ぎ「神を見た」のではないでしょうか。もちろん彼の肉の目は失われたままでしたが、彼が「神、主よ…」と祈ったとき、彼の霊の目が開け、天からの不思議な力が彼に与えられたのだと思うのです。その祈りは、あの盲人バルテマイの叫びのように、非常にシンプルで素朴な祈りでしたが(マコ10:47)、その結果バルテマイの目が開けたように、最後にサムソンの霊の目も完全に開けたのです。

先日盲目のピアニストが世界的コンクールで金賞に輝きました。ある時、彼はこう言ったそうです。「一度だけ目が開くなら、お母さんの顔が見たい」と。◆どうでしょうか、私たちの心の目は開いているでしょうか?私たちは、その心の目で何を見たいと切に願っているでしょうか?◆誰でも、まず心の中の汚れた目(罪の芽)をえぐりださなければ、主を見ることはできません。しかし悔い改めて、その目をえぐり出し、「神、主よ、私を憐れんで下さい」と祈る者は、心の目で主を見るのです。そして主を見る者は、自分に死んで、いのちを得るのです。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、
えぐり出して、捨ててしまいなさい。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
マタイ5章29、8節(要約)

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