2009年6月3日水曜日

第13回「髪の毛と共に失ったもの」士師記16章1-22節

信心深い両親のもとにナジル人として育てられたサムソン。しかし前回の所では、少しずつ神様から離れていくサムソンの様子を見ました。それは彼自身の弱さの故ではありましたが、同時に、最愛の人からの裏切りや、奴隷根性に堕した同胞に対する失望の故でもありました。彼の心は、そのような感情が複雑に入り組んで、カラカラに渇いていました(15:18)。そんな時、彼は、まるで鮭が生まれ育った川に帰ってくるように、再び神様との交わりに帰ってくるのでした(15:19)。

今日の箇所は、遊女の所に入るサムソンの姿から始まっています。その直前の15章20節には「(サムソンは)20年間イスラエルをさばいた」とありますから、おそらくイスラエルの士師(さばき司)としての仕事を立派に果たしていたのでしょう。しかし彼は相変わらず「恋多き荒(あら)くれ者」であり、ペリシテ人の遊女のもとに通うのでした。ペリシテ人たちは町の門で一晩中待ち伏せしたのですが、彼らをあざ笑うかのように、サムソンは「2本の門柱をかついで(62キロ離れた)ヘブロンの頂に運び(3)」ました。その怪力は尋常ではありませんでした。

そこでペリシテ人は、その尋常ではない怪力の秘密を知りたがりました。きっと、まともに立ち向かっても勝てないと悟ったのでしょう。そこで彼らはティムナの件で成功したように(15:16)、サムソンが好意を寄せる女性を利用することにしました。彼女の名前はデリラ、訳せば「思わせぶりをする」。彼女はしきりに彼の怪力の秘密を問いただしました。3回まで、彼は上手に交わすことができていましたが、4回目にデリラが泣きながら「あなたは私を愛していない」とすがると、彼の心もついに折れてしまいました。「サムソンは死ぬほどつらかった(15)」との言葉が印象的です。怪力サムソンも、女性の涙にはなすすべもなかったのです。

それにしても、なぜ男性は「女性の涙」に弱いのでしょう?「本当にこの人と結婚してもいいの?」の著者であるマレ牧師は「男性には生まれながらのヒーロー願望がある。女性の涙はそのヒーロー本能にスイッチを入れる」と説明します。しかし時にはそれがプラスに作用せず、へそを曲げてしまったり、妻以外の女性の涙にも反応し、その女性を自分が守ってあげなければと勘違いしてしまったりすることもあるのだとか。サムソンはそういったマッチョ本能が人一倍強かったのかもしれません。彼に限らず全ての男性は、自分の花嫁とキリストの花嫁である教会を守るという「聖い目的」のために、その本能を用いたいものです。また女性も、デリラのようにではなく、「聖い真心」から、美しい涙を流したいものです。

そして彼は、髪の毛をそり落とされ、力を失ってしまいました(19)。ここで私たちは、サムソンの髪の毛自体に不思議な力が宿っていたかのように勘違いすべきではありません。彼は髪の毛を失ってしまったからではなく、異国の女との淫行にふけり、ナジル人の尊厳(自尊心)を失い「神様との交わりを失ってしまったから」力を失ってしまったのです(新聖書注解)。髪の毛はあくまで「神様との交わり」の象徴にすぎません。裏を返せば、その髪の毛が「また伸び始めた(22)」とは…、それはまた次回の話。今回は「主が既に自分から去ってしまったのに、以前と同じように、ひとゆすりしようとした」彼の姿に重大な警告が含まれています。

私たちは「生きた主との交わり」を持っているでしょうか?サムソンがカラカラに渇いて主に呼び求めたように、私たちも主に渇き、主を呼び求めているでしょうか?◆その交わりなくして、形だけ昔と同じようにしても、もうそこに「いのち(力)」はないのです。私たちの力は、生きた主との交わりから来るのです!

わたしはぶどうの木で、
あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、
わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは
何もすることができないからです。
(ヨハネ15章5節)

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