2009年5月27日水曜日

第12回「サムソンの渇き」 士師記14章、15章

何度も言うように、士師記は不可解な書物です。士師は神の選びの器なのですが、一人一人を見れば決して模範的な信仰者ではなく、むしろ欠けだらけで普通の(いや普通以下の)人間だからです。中でもサムソンの人間くささは群を抜いています。しかしそれゆえに、彼は歴史を超えて多くの人に愛されているのです。

今日の箇所でサムソンは恋をします。彼は獅子をも引き裂く怪力の持ち主でしたが、同時に激しいまでのロマンチストであったようです。今日の箇所で、彼はペリシテの娘に見て、恋をし、まだよく知らないのにもかかわらず「あの女を私の妻に」と願い出るのです(14:2)。まさしく一目惚れです。ですが彼の両親は反対しました。なぜなら当時、異邦人との結婚は禁じられていたからです(出34:16)。しかし彼は「あの女が私の気に入った」と強引に押し切ってしまうのです(14:3)。

その背後には主の隠されたご計画がありました(14:4)。ロマンスといえば聞こえはいいのですが、これはサムソンの「わがまま」と「激しい情欲」から出たことです。また両親が危惧したように、これは明らかな律法違反です。しかし神様はそういった人々の弱さを用いても、ご自身のご計画を先に進めることのできるお方なのです。かつてヨセフは「あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました(創50:20)」と言いました。でもだからといって私たちは「それならば悪を行おう」と言ってはいけないのです(ロマ3:8)。

神様のご計画とは何だったのでしょうか?それは「ペリシテ人の手からイスラエルを救うこと」です。もちろん神様は正義と信仰によっても、イスラエルを救うことはできました。しかしこの時のイスラエルの人々は、まるで「パレスチナ人に支配されていることを当然のように感じ」「奴隷根性に陥っていた」のです(15:11)。聖書には「この人たちが黙れば、石が叫ぶ(ルカ19:40)」とありますが、イスラエルが立ち上がろうとしないから、主は欠けだらけの人間(サムソンなど士師たち)を用いられ、また人々の悪意や裏切りを通したりして、ご計画を実行に移されたのです。その方法までもが主の御心であったのではありません。

サムソンは結婚したばかりの妻に裏切られました。もちろん妻にも言い分があり、ペリシテ人仲間に「さもないと、あなたの父の家を焼き払う」と脅されたからだと言うでしょう。とにかく彼女は「あなたは私を愛してくださいません(14:16)」と夫に泣きすがりだましたのです。皮肉なことに、結局、彼女も彼女の父も、その仲間の手によって火に焼かれてしまいます(15:6)。いろいろな罪がありますが、神様は特に、愛を利用した卑劣な行為を忌み嫌われます。もしこの時、この女がすべての事情を正直に夫に話していたら事態は違っていたのかもしれません。

一連の報復行為を終えた時、サムソンは「ひどい渇きを覚え」ました。彼は何に渇いたのでしょう。イエス様は「わたしは渇く(ヨハ19:28)」とおっしゃられましたが、それは罪を背負い、父なる神と断絶された「霊的な渇き」でした。もしかしたらサムソンも、ナジル人でありながら報復に手を染め、徐々に神様から離れていく「霊的な渇き」を感じたのかもしれません。また彼は、あれほど激しく愛した人に裏切られ、同胞には見捨てられ、人からの愛に渇いていたのかもしれません。彼は主を呼び求め(15:18)まるで震える小犬のように安らぎを得るのでした。

完全な人はいません。強く見える人が本当は弱かったり、激しく怒っている人が本当は深い孤独を感じていたり、人の心は複雑で、時には自分でも、自分の心が分からなくなってしまうほどです。とにかく「渇いたら」すぐ主に叫び求めることです。主はあなたの渇きを癒すことがお出来になる、ただ一人のお方なのです。

主は、主を呼び求める
すべての人に対して
恵み深くあられるからです。

「主の御名を呼び求める者は
誰でも救われる」のです。
(ロマ10:12-13要約)

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