2009年5月15日金曜日

第11回「サムソンの両親」士師記13章1-25節

さて、私たちはいよいよ、士師記最後の大士師サムソンについて学びたいと思います。サムソンといえば、その怪力とともに、時折見せる、ひどい悪ふざけと、性的な放縦さによって有名な人物です。人は、彼のような人を見ると「親の顔も見てみたい」というかもしれませんが、今日は、そのサムソンの両親の話です。

まずは、サムソンの母親です。彼女については、聖書の中に、名前も記されていません。ただ「不妊の女」とだけ紹介されています。聖書の時代、出産は女性にとって「特別な祝福のしるし」とされていましたから、彼女は長年、非常に肩身の狭い思いをしてきたことでしょう。その彼女のもとに、主の使いが現れて「あなたは身ごもり、男の子を生む」と告げたのでした。それを聞いて、彼女はとても驚いたことでしょう。いやそれを通り越して「恐ろしかった(6)」ことでしょう。

主の使いは、生まれてくる子供が「ナジル人」であると言いました。ナジル人とは、民数記6章にその詳細が記されていますが、一定期間、もしくは生涯、主への誓願を立てている人の事でした。その名前は「聖別する(ナーザル)」から来ています。またナジル人には、①酒を飲まない、②汚れたものを食べない、③頭にかみそりを当てないなどの、禁令を厳守することも求められました。しかも、今日の箇所によれば、その父母も、①と②を守るように求められているのです(4,14)。

なぜでしょうか?それはお腹の子供が、生まれながらのナジル人(聖別された者)だからです。聖なる命を内に宿す者として、その母親はもちろん、その父親も、出産までの間、聖く過ごすことが求められたのです。私たちも同じです。私たちのお腹の中にナジル人はいませんが、聖なる御霊が宿っておられます。私たちは「聖霊の宮」なのです(Ⅰコリ6:19)。ならば私たちも普段から聖さに気を配り、罪を離れ、聖霊の宮であることを意識して過ごすべきではないでしょうか?

その夫の名はマノア(休息・平安)と言いました。彼は、実に立派な信仰の持ち主でした。彼は最初、妻から不思議な知らせを聞いたときにも、疑うことを一切せず、むしろ「その子を、どのように育てたらよいか」ということを心配しました(8,12)。また彼は、すべての感謝を、主への全焼のいけにえという形でささげることも忘れませんでした(19)。またこれは想像ですが、マノアが最初から妻の言うことを素直に信じることができたのは、普段から、妻に対する深い信頼と尊敬があったからではないでしょうか。主はこの夫婦を選び「不思議」を行われました(18)。

このサムソンの両親の姿勢に、私たちも見習いたいものです。彼らは自分の子を、自分勝手な悟りによって育てるのではなく「主からの賜物として」「どうやって育てたらよいのですか」と真剣に尋ね求め、信仰と恐れ(畏れ)をもって育てました。またマノアの妻は、出過ぎず、非常に控えめではありましたが、実は夫よりも深い霊的な洞察をもっていました。夫は、最後の方まで、主の使いに気づいてはいませんでしたが(16)妻は最初から気付いていました(3)。また夫が「神を見たので必ず死ぬ(22)」と取り乱す時にも、妻はその背後にある「深い神様の憐れみ」を読み取り、賢く落ち着いて、夫の支えになることができました(23)。

私たちはどうでしょうか?自分勝手な悟りや基準で、子供を育ててはいないでしょうか?自分勝手な願いを押し付けていないでしょうか?◆大切なのは、まず主に尋ね求めることです。そして子供の前に、まず自分自身が主の前に聖く歩むことです。そして最後に、夫婦が愛し合い、尊敬しあっていることです。◆主はそういった家庭を祝し、そういった家庭を通して、不思議を行ってくださるのです。

父たちよ(もちろん母も)。
あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。
かえって、主の教育と訓戒によって
育てなさい。(エペソ6章4節)

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