2009年4月21日火曜日

第9回「軽率な誓願」 士師記11章1-40節

ギデオンの後イスラエルは再び主に背いてしまいました。彼らは主を捨ててカナンの神々に仕えたのです。そこで主はアモン人を興され、イスラエルを苦境に追い込まれました(10:9)。するとようやく彼らは悔い改め主に叫んだのです。そんな彼らを見て「忍びなく思われた(10:16)」主は、一人の人物を起こされました。

その名はエフタでした。彼はギルアデの生まれで、遊女の子でした。成長した彼は異母兄弟たちに嫌われ、家から追い出されてしまいました。行き場を失った彼は、小都市国家トブに流れ着き、いつの間にか彼の周りには「ごろつきたち」が集まるようになりました(3)。そんな彼らは砂漠や荒野を旅する商隊を襲って、次第に有名になっていったと考えられています。つまりエフタとは、今日でいうところの「札付きのワル」「ギャングスター」「ならずもののかしら」であったのです。

そんな彼の所に思わぬ話が舞い込んできました。アモン人がまたイスラエルに戦争をしかけてきたのです。危機感を募らせたギルアデの長老たちは、苦肉の策としてエフタに首領になってくれるよう頼みに来ました。でもエフタは直ぐには引き受けませんでした。当然です!かつて彼らはエフタに何をしたのでしょうか?利用するだけ利用して、捨てられることはないでしょうか?そこでエフタは主の前に契約を結ぶことを条件として、その任を引き受けることにしたのです(9-11)。

双方の外交努力(12-28)もむなしく戦争が始まりました。出陣の際、エフタは主に一つの誓願を立てます。その内容は「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます(30-31)」というものでした。しかし人間を全焼のいけにえとして捧げるという残虐な行為は、忌まわしきカナンの習慣であり、律法では「真似てはならない」と堅く禁じられています(詩106:38、申12:29-31)。

エフタの軽はずみな誓願は、思わぬ悲劇を彼自身にもたらすことになりました。なんと、アモン人との戦いに勝利して帰ってくると、彼を出迎えたのは、まだ若い彼の一人娘だったのです…。しかもタンバリンを手にとって、喜び踊りながらお父さんを迎える彼女の姿が、より一層その悲劇を増し加えています。エフタはその娘の姿を見て、胸の痛みを抑えきれず、思わず自分の着物を引き裂きました。この悲劇は、その後も長くイスラエルでも長く語り継がれることになりました(40)。

この聖書の箇所は本当に難解です。ヘブル人への手紙では「エフタについても話すならば時が足りないでしょう。彼は信仰によって国々を征服し、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました(11:32-34要約)」と、エフタの信仰が評価されています。しかしもし評価するならば「お父さま。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから(36)」と告白した娘の信仰こそ評価されるべきではないでしょうか?

仮に、最後まで主に従い、誓願を果たしたエフタの信仰が立派だったとします。しかしもっと立派なのは、そのような誓願を立てず、ただ無条件に主に従うことなのです。◇私たちも「主よ、もし助けてくれたら○○します」なんて軽率な誓願(神様との取り引き)をしないよう気をつけなければなりません。そのような条件を付けず、ただ「はい」は「はい」と、素直に主に従うことが大切なのです。

あなたがたは
『偽りの誓いを立ててはならない。
誓ったことを主に果たせ』
と言われていたのを聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。
決して誓ってはいけません。
『はい』は『はい』、
『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。
それ以上のことは悪いことです。
(マタイ5:33-37要約)

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