2009年2月19日木曜日

第5回「主を試みる ギデオン」6章1~40節

今日の箇所は、士師記の中でもっとも記述の長いギデオンについてです。それはあのサムソンよりも長いのです。またこの「ギデオン」の名は、あの聖書を配布する「ギデオン協会」によっても有名になりました。さぁ、ギデオンはどのような信仰をもって、どのように活躍したのでしょうか?一緒に見ていきましょう。

ギデオンの時代、イスラエルは再び非常に弱っていました。ミデヤン人はイナゴの大群のようにしてやってきて、イスラエル人の町を、滅茶苦茶に荒らしてしまいました(5)。そこまで国が荒廃した原因はイスラエルの不信仰にありました。彼らはデボラ以後、再び主から離れ、「バアル」や「アシェラ」の神々を拝んでいたのです。ギデオンも、そのような環境にどっぷりつかって育ってきました(25)。しかし、主のイスラエルに対する愛(熱心)は、変わることがありませんでした。

イスラエルが主に叫び求めると、主はギデオンを士師として選ばれました。しかし当のギデオンは、まったく自信がなく、召された時も、ミデヤン人から逃れ、隠れるように酒ぶねに身を潜め、小麦粉を打っている時でした。そんな彼に対し、主の使いは「主があなたと一緒におられる(12)」と告げられました。しかしギデオンは全く喜べないどころか「主の栄光はもう過去のもので、主は私たちを見捨てられたのだ」「私は父の家で一番弱く一番若い」と言い逃れをするばかりでした。

確信を求め、ギデオンは主を試みました。彼はこう願いました。「お願いです。私と話しておられるのが、あなたであるというしるしを見せてください(17)」と。一見、拙い信仰から出た願いのようです。しかし主はその願いをも聞かれ、彼の目の前で不思議を行われました(21)。それに加え、彼の父にも変化が起こりました。彼は父が熱心に拝んでいた偶像を壊してしまったのですが、父は彼を責めず、町の人々から彼を守ったのです(31)。また彼が角笛を吹くと、多くの民がギデオンに従うためにやってくるではありませんか!その全てが「しるし」でした。

しかしギデオンは、それでも確信をもてませんでした。そこで彼は更に二度も、主を試みたのです。有名な羊の毛の話です。一度目は、羊の毛だけをつゆで濡らし、地面は乾いているようにと。そして2度目は、羊の毛だけは乾いていて、地面は濡れているようにと(37-40)。身勝手で、主をいたずらに翻弄しているかのような願いです。しかし主はそのいずれにも答えられました。私たちの不信仰を受け止め、必要ならば「しるし」さえも与えてくださる主の憐れみがそこにあります。

聖書の中で一か所だけ「主を試してみよ」と勧められている個所があります(マラ3:10)。献金の箇所です。もしも私たちが精一杯捧げるなら、主は溢れるばかりの恵みをもって報いてくださるのでだと。またトマスは「イエス様の復活のしるしを見ないと信じない」と言いました。イエス様はそんな彼にも現れ、十字架の傷跡を示されました。これらの箇所を読む時、私たちはもっと積極的に「しるし」を求めてもよいような気がします。「求める者には与えられる(マタ7:7)」のですから。

しかし主の「究極の御心」は別なところにあります。それは私たちが「見ないで信じる者」となることです。主は私たちが思う以上に憐れみ深い方なので、自己中心な要求であっても敢えて答えられることがあります。しかしそれを当然と考えてはいけません。答えるか答えないかは、あくまで「主の主権」に属することなのです。またそこに留まっていてもいけません。私たちは更に成長し、どんな試練の中でも、ただ主を愛するが故に、従う者とならなければいけないのです。

イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネ20:29

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