2009年2月26日木曜日

第6回「神様の選考基準」7章1~25節

前回の箇所で主によって選ばれたギデオン。しかし元をたどれば「彼の分団はマナセの内で最も弱く、彼は父の家では一番弱い(6:15)」者でした。そこで彼は「これが本当に主ご自身から出たことであるかどうか」を確かめるために、主に再三にわたって「しるし」を求めたのです。そして主は、ことごとくその願いを聞き入れられました。彼の不安は消え去りました。いよいよ「戦」の始まりです!

ギデオンたちは「ハロデの泉」の近くに陣をしきました(1)。ハロデとは、「おののき」という意味です。そこで主は突然こう言われました。「あなたと一緒にいる民は多すぎる。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に誇るといけないから(2)」と。そこで主による選考が始まるのですが、主は最初「恐れおののく者はみな帰りなさい(3)」と命じられました。その結果、2万2千人が帰ってしまい、1万人のみが残りました。敵は海辺の砂ほどたくさんいるのに…(12)。

なぜ主は「恐れおののく者はみな帰れ」と命じられたのでしょうか。申命記にその理由がありますが、そこには「戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから(20:8)」と記されています。つまり、恐れおののく者がいると、その「恐れ」が伝染するというのです。確かに聖書には、弱気な言葉を聞いて、心がしなえてしまう民の姿が、しばしば登場します(民13,14章)。しかしその反対もまた真実です。信仰に基づいた勇敢な言葉は人々の心を強め、勇気を与えるのです。

続いて主は、水辺にて民を試されました。その選考基準は非常にユニークで「犬のように、ひざをついて舌で水を飲んだ者は失格とされ。手を口に当てて水をなめた者は合格(5)」とされたのです。なぜでしょうか。それは戦場においては、いつどこから敵が襲ってくるか分からないからです。そんな時に犬のようにカブガブ水を飲む「油断した者」は、兵士としてふさわしくないのです。兵士とは、水を飲むときも目を光らせ、片手は槍から離さないものです。残った者は僅か3百人でした。最初は3万2千人いたのに1パーセント未満に減ってしまいました。

ギデオンはその3百人で、13万5千人のミデヤン人に挑みました(8:10)。その数なんと450倍です!しかも彼らには、数えきれないほどの「らくだ」がありました(6:5)。人間的に考えたら勝ち目はありません。しかし主は、まさにそのことを明らかにするために、民を選考したのです。人間の無力を明らかにし、神の力を明らかにするのが、神様の方法です。ギデオンたちは敵に攻め入りました。その前に主が夢によって、敵に恐怖心を植え付けていたので(13)、敵はパニックに陥り同士打ちを始めました(22)。こうして彼らは、敵を壊滅状態にしたのです。

私たちは、主の兵士です。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい(Ⅰテモ6:12)」と聖書には勧められています。クリスチャン人口は、日本の中で1パーセント未満ですが、それでも勇敢である必要があります。そこで質問です。あなたは神の国の兵士として「ふさわしい者」でしょうか?それとも、不信仰な言葉と弱音によって、兄弟姉妹の士気を下げてしまう者でしょうか?油断をして、敵を見失い、挙句の果てに「同士打ち」をしてしまう者でしょうか?

もし相応しくないと思うなら、あなたは合格です。もちろん前向きな信仰や、生活の中でも、本当の敵を見失わないことは大切です。◇しかし主の兵士として一番ふさわしくないのは、すぐに「自分の手で自分を救った」と勘違いする傲慢な者なのです。私たちが弱い時ほど、実は信仰によって勇士となるチャンスなのです!

これ以上、何を言いましょうか。
もしギデオン、バラク、サムソン、
エフタについても話すならば、
時が足りないでしょう。
彼らは、信仰によって、
弱い者なのに強くされ、
戦いの勇士となりました。
へブル11章32-34節(抜粋)

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