2009年1月15日木曜日

第1回「不従順の結果」 1章1~2節、19~2章5節

今日からいよいよ、士師記の学びが始まります。ヨシュア記の学びを始める前、正直に言って「こんなに血なまぐさいヨシュア記から何を学ぶことができるのか」という不安がありました。しかし主は、その中からも私たちに、尊い霊的な教訓を残してくださいました。そして今回、士師記を前にしても、やはり私たちには「このような混沌とした士師記から何を学ぶことができるのだろうか」との不安があります。しかしきっと主は今回も、今この時にしか学ぶことのできない、「大切な何か」を教えられることでしょう。期待し、信仰をもって学びましょう!

「さて、ヨシュアの死後(1:1)」この言葉をもって、士師記は幕を開けています。ヨシュアの死の直前、イスラエルの民はヨシュアに向かい「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います」と誓ました。しかし彼らのその決意も、長くは続かなかったのです。ヨシュアの死後まもなく、彼らは主の命令に背いて、カナンの住民を聖絶せず、彼らと契約を結んで、自分たちの間に残しておいたのです。

その数は最初、少数で、イスラエルは彼らに苦役を課し、コントロールしていました。しかし彼らの間に住むカナン人の数は徐々に多くなり、コントロールしていたつもりがコントロールされるようになり、次第に形勢は逆転していきました。主の使いは彼らに言いました。「彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる(3)」と。それを聞いてイスラエルは声をあげて泣きました。

私にたちにも同じことは起こり得ます。最初は大丈夫なのです。自分でコントロールできているのです。しかしその存在が、じわじわと私たちの心を蝕(むしば)み、気づいた時には、もう自分でもコントロール出来なくなってしまっているのです。いや、それでも気づけばいいのですが、場合によってはまったく気付かず、そのまま「霊的な死(主との断絶)」に至ってしまうのです。サタンは私たちよりも賢いのです。そしてサタンは上手に私たちの心を、主から遠ざけてしまうのです。

「主は本当にそう言われたのですか?」いつもこの一言から始まります。主と主の言葉に疑問を持ち、自分なりの解釈を加え始めるのです。エバは答えました。「(神様は)『それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました(創3:3)」と。しかし実際は「触れてもいけない」とは言われていないし、「死ぬといけない」ではなく「必ず死ぬ(2:17)」言われたのです。主を、やたらに恐くしたり、優しくしながら、人の心は主から離れていくのです。

そして最終的には、主と主の言葉に従えなくなってしまいます。イスラエルも、最初はもっと簡単に考えていたのかもしれません。「主は、本当に聖絶しなさいと言われたのだろうか」「主はもっと優しい方じゃないだろうか」「彼らに苦役を課していれば大丈夫じゃないだろうか」「主もそれくらいは認めてくださるのではなか」と。そしてめいめいが自分の目に正しいと見えることを行なった結果、民全体の心が、主から遠く離れてしまったのです。最初は小さな不従順だったのに…。

あなたは大丈夫でしょうか?本当はすべき正しいことを知っているのに、主の言葉に「私的解釈」を施しながら、背き続けているということはないでしょうか?◆今は大丈夫かもしれません。あなたは、その「不従順の種」をうまく飼い慣らしているかもしれません。しかしそれを放置しておくと、やがてそれは、自分の手にも負えない「魔物(不従順の化け物)」へと成長していく可能性があるのです。◆最初は小さな不従順なのです。しかし、それがもたらす結果は甚大です。

それには何よりも
次のことを知っていなければいけません。
すなわち、聖書の預言はみな、
人の私的解釈を施してはならない、
ということです。
(Ⅱペテロ1章20節)

このことばは真実であり、
そのまま受け入れるに値することばです。
(Ⅰテモテ4章9節)

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