2009年1月29日木曜日

第3回「主の勇士、左利きのエフデ」 3章12~30節

私たちは士師記を読むときに、ある一つのパターンを見出します。まず最初に、いつもイスラエルが主の目の前に悪を行い、カナン人に支配されてしまうのです。その中で、彼らは主に呼ばわります。すると主は士師を遣わされ、イスラエルを救われます。でもまたしばらくするとイスラエルは逆戻りをし、支配されてしまうとい繰り返しです。ある人は、そんなイスラエルのことを、「主が遣わされた家庭教師がいなくなると、すぐに落第してしまう劣等学生」と評するくらいです。

今日の個所でもイスラエルは危機的な状況を迎えています。なんと、あのエリコ(別名:なつめやしの町)が、エグロンによって占領されてしまったのです(13)。それは彼らの自尊心を、おおいに傷つけたことでしょう。エリコといえば、まだヨシュアが生きていた時、主がこのカナンの地で最初にイスラエルに与えられた町でした。その町までもが、彼らの不信仰によって、失われてしまったのです…。

その時、ようやく彼らは目を覚ましました。霊的な浮気を繰り返し、カナンの神々に仕えていたのですが、自分たちのことを本当に愛してくださっているのは、【主】だけであることを思い出したのです。そして主に向かって叫び求めました。そんなイスラエルの姿は、私たちの姿とも重なります。私たちもともすれば、主以外のものに夢中になり、主を忘れ、主をないがしろにし、霊的な浮気を繰り返してしまうのです。そして痛い思いをして、やっと主のふところに戻って来るのです。

そんなイスラエルに、主はエフデを与えられました。彼について聖書はあまり多くを語っていませんが「ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデ」とだけ紹介しています(15)。フランシスコ会の注解書によりますと、この文の直訳は「右手(ヤミン)の不自由な子、左利きのエフデ」なのだそうです。もしそれが正しいとすると、彼は単なるサウスポーではなく、右手の不自由な戦闘不能者であり、だからこそ警戒されず、剣を隠し持ったまま、エグロンにも会えたとも考えられます。

それにしても敵の王エグロンとは、何と貪欲な男でしょうか。彼はエフデの外見に油断したのでしょうか?それとも秘密の「みつぎもの」でも、貰えると思ったのでしょうか?エフデが「秘密のお知らせがある」との申し出ると、大した審査もなく、エフデを屋上の部屋に招き入れて二人きりになったのです。彼の死に方が、いかにも、彼の欲にまみれ、油断しきった人生を、物語っているようでした(22)。

その後のエフデの活躍は、圧巻でした。彼は味方の元に戻っていき、山地で角笛を吹きならしました。そして「私の後を追ってきなさい(28)」と全軍の先頭に立ち、一気に山地を下り、敵を攻めとったのです。彼がどんな外見をしていたかは分かりませんが、あまり警戒心を抱かせない(すなわちそれほど猛々しくない)風貌であったことは確かです。しかしその彼こそが、主に選ばれた「士師」だったのです!

あなたは信仰の戦いを立派に戦う「勇士」ですか?人と比べて弱々しいとか、知識がないとか、そういうことは関係ありません。いやむしろ、そういうものは、ない方が良いのです。主はむしろ弱い人を選び、この世のとるに足らない人を通して御業を行われるのです。大切なのはあなたが主の声に従うがどうかなのです。

しかし神は、
知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を選ばれました。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
(Ⅰコリント1章27-29節 抜粋)

2009年1月23日金曜日

第2回「試練の意味」3章1~11節

ヨシュアがまだ生きていたころ、イスラエルはヨシュアと共にカナンの地をことごとく攻めとりました。そして一度は「その地に戦争はやんだ(ヨシュア11:23)」とまで言われました。しかし実際は、ヨシュア自身によって「あなた方の中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々に仕えてはならない。それらを拝んではならない(ヨシュア23:7)」と言われている通り、まだまだ多くのカナン人が彼らの間に残っており、戦いは完全にはやんではいませんでした。

では「その地に戦争はやんだ」との終戦宣言は、間違いだったのでしょうか?そんなことはありません。主の預言には、常に「すでに」と「いまだ」の両面があるのです。イエス様が述べ伝えられた「神の国」は、すでに私たちのただ中にあります(ルカ17:21)。しかしその完全な現れはまだです(黙示21)。同様にカナンも、すでにヨシュアによって与えられたのですが、その完全な征服には、まだ時間が必要なのです。私たちもすでに救われましたが、まだ完成はしていないのです。

イスラエルの場合、カナン征服を遅らせているのは、彼ら自身でもありました。彼らは、自分たちの間に住んでいるカナン人たちを追い払わず、前回学んだ通り、彼らと契約を結んだり、苦役を課すなどして、自分たちの間に残しておいたのです。最初は、それでもうまく彼らを支配し、主導権を握ることができていました。しかし、すぐに形勢は逆転し、イスラエルは、追われる立場になってしまったのです。

また主ご自身が、あえて、約束の完成を遅らせることもあります。今日の個所には「主がイスラエルを試みるために、民を残しておいた(士師3:1)」と書かれていますし、「それは戦いを教え、知らせるためである(3:2)」とも記されています。神様は、私たちの従順を試すために、また私たちが、主の勇敢な弟子として更に成長するために、あえて私たちのために「敵と試練」を残されることがあるのです。

しかし、イスラエルはその後、堕落してしまいました。彼らは、カナンの娘を娶ったり、カナンの息子たちに嫁いだりして、だんだんとカナン人と同化をしていきました。それはただ単に、混血が進められたことが問題であったのではなく、彼らが、自分たちの主を捨て、カナン人の神々(バアル・アシェラ)に仕え、それを拝み、自分たちの主を忘れ、主の目の前に悪を行ったから、問題だったのです(3:6-7)。

堕落の責任を主になすりつけてはいけません。主は、イスラエルが、その試練に耐え抜き、約束のものを得ることを望んでおられたのです。しかし、イスラエルは、その期待を裏切ってしまいました。聖書には「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません(ヤコブ1:13)」とあります。主はあくまで、私たちを愛し、祝福を授けるために、一時の間、試練を残されるのです。

その証拠にイスラエルが主に叫び求めると、主はオテニエルを用意されました。イスラエルが勝利したのは単にオテニエルが勇敢で、力強かったからではありません。彼にも弱さがありました(1:12-15)。しかし主はそれでもイスラエルを愛するが故にオテニエルを主の霊で満たし、彼を通して勝利を与えられたのです。◆あなたにも試練がありますか?ならば、主はあなたを愛し、期待しておられるのです。主はあなたを練り聖め、強め、不動のものとしようとしておられるのです。どうかあなたが耐え抜き、本当の意味での勝利を得ることができますように。

あらゆる恵みに満ちた神、
すなわち、あなたがたをキリストにあって
その永遠の栄光の中に
招き入れてくださった神ご自身が、

あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、
堅く立たせ、強くし、
不動の者としてくださいます。
(Ⅰペテロ5章10節)

2009年1月15日木曜日

第1回「不従順の結果」 1章1~2節、19~2章5節

今日からいよいよ、士師記の学びが始まります。ヨシュア記の学びを始める前、正直に言って「こんなに血なまぐさいヨシュア記から何を学ぶことができるのか」という不安がありました。しかし主は、その中からも私たちに、尊い霊的な教訓を残してくださいました。そして今回、士師記を前にしても、やはり私たちには「このような混沌とした士師記から何を学ぶことができるのだろうか」との不安があります。しかしきっと主は今回も、今この時にしか学ぶことのできない、「大切な何か」を教えられることでしょう。期待し、信仰をもって学びましょう!

「さて、ヨシュアの死後(1:1)」この言葉をもって、士師記は幕を開けています。ヨシュアの死の直前、イスラエルの民はヨシュアに向かい「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います」と誓ました。しかし彼らのその決意も、長くは続かなかったのです。ヨシュアの死後まもなく、彼らは主の命令に背いて、カナンの住民を聖絶せず、彼らと契約を結んで、自分たちの間に残しておいたのです。

その数は最初、少数で、イスラエルは彼らに苦役を課し、コントロールしていました。しかし彼らの間に住むカナン人の数は徐々に多くなり、コントロールしていたつもりがコントロールされるようになり、次第に形勢は逆転していきました。主の使いは彼らに言いました。「彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる(3)」と。それを聞いてイスラエルは声をあげて泣きました。

私にたちにも同じことは起こり得ます。最初は大丈夫なのです。自分でコントロールできているのです。しかしその存在が、じわじわと私たちの心を蝕(むしば)み、気づいた時には、もう自分でもコントロール出来なくなってしまっているのです。いや、それでも気づけばいいのですが、場合によってはまったく気付かず、そのまま「霊的な死(主との断絶)」に至ってしまうのです。サタンは私たちよりも賢いのです。そしてサタンは上手に私たちの心を、主から遠ざけてしまうのです。

「主は本当にそう言われたのですか?」いつもこの一言から始まります。主と主の言葉に疑問を持ち、自分なりの解釈を加え始めるのです。エバは答えました。「(神様は)『それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました(創3:3)」と。しかし実際は「触れてもいけない」とは言われていないし、「死ぬといけない」ではなく「必ず死ぬ(2:17)」言われたのです。主を、やたらに恐くしたり、優しくしながら、人の心は主から離れていくのです。

そして最終的には、主と主の言葉に従えなくなってしまいます。イスラエルも、最初はもっと簡単に考えていたのかもしれません。「主は、本当に聖絶しなさいと言われたのだろうか」「主はもっと優しい方じゃないだろうか」「彼らに苦役を課していれば大丈夫じゃないだろうか」「主もそれくらいは認めてくださるのではなか」と。そしてめいめいが自分の目に正しいと見えることを行なった結果、民全体の心が、主から遠く離れてしまったのです。最初は小さな不従順だったのに…。

あなたは大丈夫でしょうか?本当はすべき正しいことを知っているのに、主の言葉に「私的解釈」を施しながら、背き続けているということはないでしょうか?◆今は大丈夫かもしれません。あなたは、その「不従順の種」をうまく飼い慣らしているかもしれません。しかしそれを放置しておくと、やがてそれは、自分の手にも負えない「魔物(不従順の化け物)」へと成長していく可能性があるのです。◆最初は小さな不従順なのです。しかし、それがもたらす結果は甚大です。

それには何よりも
次のことを知っていなければいけません。
すなわち、聖書の預言はみな、
人の私的解釈を施してはならない、
ということです。
(Ⅱペテロ1章20節)

このことばは真実であり、
そのまま受け入れるに値することばです。
(Ⅰテモテ4章9節)