2009年4月24日金曜日

第10回 「後出しジャンケン」 士師記12章1-7節

前回私たちは「ならず者の頭」から「ギルアデの首領」にまで上り詰めたエフタについて学びました。彼の性格は、喧嘩っ早く、取引上手で、頭に血が上ると大きな(軽率な)言動に出てしまう、そんなところがありました。しかし彼は、その軽率さによって大きな代償を払うことになりました。ひとり娘を失い、心に深い傷を負うのでした。その傷口は、きっとまだズキズキ痛んでいたことでしょう。

その傷口に、塩をすり込むような出来事が起きました。突然エフライムが、兵を引き連れてエフタの目の前に現れ、こう言うのでした。「なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う(1)」と。それは事実無根の「言いがかり」でした。それまでもギルアデは、アモン人に攻め込まれた時、エフライムに援軍を頼んできたのに、彼らは助けてくれなかったのです(2-3)。

以前にも似たようなことがありました。ギデオンがミデヤン人に対し勝利をほぼ手中に収めた時、突然エフライムが遅れて参戦して来て「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは(8:1)」と言ったのです。そこに見え隠れするのは「汗(血)を流さずとも分け前にあずかろうとする」大部族のおごりです。もしかしたらエフライムは、ギデオンの件で味をしめ、エフタ(ギルアデ)に対しても脅しをかけ、何かを引き出そうとしたのかもしれません。しかしそうは上手くいきませんでした。

エフタはギデオンと違い、徹底抗戦に打って出たのです。ギデオンは「私たちは、あなたがた(エフライム)に比べたら、とるに足らない者です(2-3)」という謙遜さによってエフライムの怒りを和らげました。しかし娘を失った悲しみで心が満ちていたエフタは、理不尽な要求をするエフライムに、おべっかを使うこともなく怒りの炎を燃やしました。しかもエフライムがギルアデのことを「金魚のフンの臆病者」呼ばわりをしたことが(4)怒りの炎に大量の油を注いでしまいました。

確かにエフライムのやったことは、人の道に反します。彼らの方こそ臆病者です。しかし聖書にはこうあります。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる(箴言16:25,32)」と。人は自分の方が正しいと思うから怒るのです。しかしその怒り(正義)を突き詰めていくと、破滅に至るのです。ギデオンが全部正しかったとは思いません。彼もペヌエルとスコテという同胞を虐殺しました(8:4-17)。しかしエフライムへの対処においては、ギデオンの方がエフタよりも、一枚も二枚も上手であったことは、認めざるをえません。

人の怒りは神の義を実現するものではありません。エフタのやり方が、また何とも残忍でした。彼は「シボレテ(川の流れ)」と言わせ、相手になまりがあれば一人一人殺していったのです。恐怖に満ちた魔女狩りです。その結果4万2千人のエフライム人が殺されました(7)。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは何という幸せ、何という楽しさであろう(詩133:1)」。この理想はどこへ行ってしまったのでしょうが。時には「人の正義」が、人と国を不幸にするのです。

私たちはどうでしょうか?卑劣なことをされたり、言われたりしたら、当然自分には怒る権利があると思うでしょう。しかし、その終わりは「死の道」であることを私たちは覚えておかなければなりません。◇両方とも傷つくのです。いや、周りのみんなを巻き込んで共同体を破壊します。本当の勇気とは何でしょうか?

だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、
怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、
神の義を実現するものではありません。
(ヤコブ1章19ー20節)

2009年4月21日火曜日

第9回「軽率な誓願」 士師記11章1-40節

ギデオンの後イスラエルは再び主に背いてしまいました。彼らは主を捨ててカナンの神々に仕えたのです。そこで主はアモン人を興され、イスラエルを苦境に追い込まれました(10:9)。するとようやく彼らは悔い改め主に叫んだのです。そんな彼らを見て「忍びなく思われた(10:16)」主は、一人の人物を起こされました。

その名はエフタでした。彼はギルアデの生まれで、遊女の子でした。成長した彼は異母兄弟たちに嫌われ、家から追い出されてしまいました。行き場を失った彼は、小都市国家トブに流れ着き、いつの間にか彼の周りには「ごろつきたち」が集まるようになりました(3)。そんな彼らは砂漠や荒野を旅する商隊を襲って、次第に有名になっていったと考えられています。つまりエフタとは、今日でいうところの「札付きのワル」「ギャングスター」「ならずもののかしら」であったのです。

そんな彼の所に思わぬ話が舞い込んできました。アモン人がまたイスラエルに戦争をしかけてきたのです。危機感を募らせたギルアデの長老たちは、苦肉の策としてエフタに首領になってくれるよう頼みに来ました。でもエフタは直ぐには引き受けませんでした。当然です!かつて彼らはエフタに何をしたのでしょうか?利用するだけ利用して、捨てられることはないでしょうか?そこでエフタは主の前に契約を結ぶことを条件として、その任を引き受けることにしたのです(9-11)。

双方の外交努力(12-28)もむなしく戦争が始まりました。出陣の際、エフタは主に一つの誓願を立てます。その内容は「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます(30-31)」というものでした。しかし人間を全焼のいけにえとして捧げるという残虐な行為は、忌まわしきカナンの習慣であり、律法では「真似てはならない」と堅く禁じられています(詩106:38、申12:29-31)。

エフタの軽はずみな誓願は、思わぬ悲劇を彼自身にもたらすことになりました。なんと、アモン人との戦いに勝利して帰ってくると、彼を出迎えたのは、まだ若い彼の一人娘だったのです…。しかもタンバリンを手にとって、喜び踊りながらお父さんを迎える彼女の姿が、より一層その悲劇を増し加えています。エフタはその娘の姿を見て、胸の痛みを抑えきれず、思わず自分の着物を引き裂きました。この悲劇は、その後も長くイスラエルでも長く語り継がれることになりました(40)。

この聖書の箇所は本当に難解です。ヘブル人への手紙では「エフタについても話すならば時が足りないでしょう。彼は信仰によって国々を征服し、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました(11:32-34要約)」と、エフタの信仰が評価されています。しかしもし評価するならば「お父さま。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから(36)」と告白した娘の信仰こそ評価されるべきではないでしょうか?

仮に、最後まで主に従い、誓願を果たしたエフタの信仰が立派だったとします。しかしもっと立派なのは、そのような誓願を立てず、ただ無条件に主に従うことなのです。◇私たちも「主よ、もし助けてくれたら○○します」なんて軽率な誓願(神様との取り引き)をしないよう気をつけなければなりません。そのような条件を付けず、ただ「はい」は「はい」と、素直に主に従うことが大切なのです。

あなたがたは
『偽りの誓いを立ててはならない。
誓ったことを主に果たせ』
と言われていたのを聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。
決して誓ってはいけません。
『はい』は『はい』、
『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。
それ以上のことは悪いことです。
(マタイ5:33-37要約)