2009年4月24日金曜日

第10回 「後出しジャンケン」 士師記12章1-7節

前回私たちは「ならず者の頭」から「ギルアデの首領」にまで上り詰めたエフタについて学びました。彼の性格は、喧嘩っ早く、取引上手で、頭に血が上ると大きな(軽率な)言動に出てしまう、そんなところがありました。しかし彼は、その軽率さによって大きな代償を払うことになりました。ひとり娘を失い、心に深い傷を負うのでした。その傷口は、きっとまだズキズキ痛んでいたことでしょう。

その傷口に、塩をすり込むような出来事が起きました。突然エフライムが、兵を引き連れてエフタの目の前に現れ、こう言うのでした。「なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う(1)」と。それは事実無根の「言いがかり」でした。それまでもギルアデは、アモン人に攻め込まれた時、エフライムに援軍を頼んできたのに、彼らは助けてくれなかったのです(2-3)。

以前にも似たようなことがありました。ギデオンがミデヤン人に対し勝利をほぼ手中に収めた時、突然エフライムが遅れて参戦して来て「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは(8:1)」と言ったのです。そこに見え隠れするのは「汗(血)を流さずとも分け前にあずかろうとする」大部族のおごりです。もしかしたらエフライムは、ギデオンの件で味をしめ、エフタ(ギルアデ)に対しても脅しをかけ、何かを引き出そうとしたのかもしれません。しかしそうは上手くいきませんでした。

エフタはギデオンと違い、徹底抗戦に打って出たのです。ギデオンは「私たちは、あなたがた(エフライム)に比べたら、とるに足らない者です(2-3)」という謙遜さによってエフライムの怒りを和らげました。しかし娘を失った悲しみで心が満ちていたエフタは、理不尽な要求をするエフライムに、おべっかを使うこともなく怒りの炎を燃やしました。しかもエフライムがギルアデのことを「金魚のフンの臆病者」呼ばわりをしたことが(4)怒りの炎に大量の油を注いでしまいました。

確かにエフライムのやったことは、人の道に反します。彼らの方こそ臆病者です。しかし聖書にはこうあります。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる(箴言16:25,32)」と。人は自分の方が正しいと思うから怒るのです。しかしその怒り(正義)を突き詰めていくと、破滅に至るのです。ギデオンが全部正しかったとは思いません。彼もペヌエルとスコテという同胞を虐殺しました(8:4-17)。しかしエフライムへの対処においては、ギデオンの方がエフタよりも、一枚も二枚も上手であったことは、認めざるをえません。

人の怒りは神の義を実現するものではありません。エフタのやり方が、また何とも残忍でした。彼は「シボレテ(川の流れ)」と言わせ、相手になまりがあれば一人一人殺していったのです。恐怖に満ちた魔女狩りです。その結果4万2千人のエフライム人が殺されました(7)。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは何という幸せ、何という楽しさであろう(詩133:1)」。この理想はどこへ行ってしまったのでしょうが。時には「人の正義」が、人と国を不幸にするのです。

私たちはどうでしょうか?卑劣なことをされたり、言われたりしたら、当然自分には怒る権利があると思うでしょう。しかし、その終わりは「死の道」であることを私たちは覚えておかなければなりません。◇両方とも傷つくのです。いや、周りのみんなを巻き込んで共同体を破壊します。本当の勇気とは何でしょうか?

だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、
怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、
神の義を実現するものではありません。
(ヤコブ1章19ー20節)

2009年4月21日火曜日

第9回「軽率な誓願」 士師記11章1-40節

ギデオンの後イスラエルは再び主に背いてしまいました。彼らは主を捨ててカナンの神々に仕えたのです。そこで主はアモン人を興され、イスラエルを苦境に追い込まれました(10:9)。するとようやく彼らは悔い改め主に叫んだのです。そんな彼らを見て「忍びなく思われた(10:16)」主は、一人の人物を起こされました。

その名はエフタでした。彼はギルアデの生まれで、遊女の子でした。成長した彼は異母兄弟たちに嫌われ、家から追い出されてしまいました。行き場を失った彼は、小都市国家トブに流れ着き、いつの間にか彼の周りには「ごろつきたち」が集まるようになりました(3)。そんな彼らは砂漠や荒野を旅する商隊を襲って、次第に有名になっていったと考えられています。つまりエフタとは、今日でいうところの「札付きのワル」「ギャングスター」「ならずもののかしら」であったのです。

そんな彼の所に思わぬ話が舞い込んできました。アモン人がまたイスラエルに戦争をしかけてきたのです。危機感を募らせたギルアデの長老たちは、苦肉の策としてエフタに首領になってくれるよう頼みに来ました。でもエフタは直ぐには引き受けませんでした。当然です!かつて彼らはエフタに何をしたのでしょうか?利用するだけ利用して、捨てられることはないでしょうか?そこでエフタは主の前に契約を結ぶことを条件として、その任を引き受けることにしたのです(9-11)。

双方の外交努力(12-28)もむなしく戦争が始まりました。出陣の際、エフタは主に一つの誓願を立てます。その内容は「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます(30-31)」というものでした。しかし人間を全焼のいけにえとして捧げるという残虐な行為は、忌まわしきカナンの習慣であり、律法では「真似てはならない」と堅く禁じられています(詩106:38、申12:29-31)。

エフタの軽はずみな誓願は、思わぬ悲劇を彼自身にもたらすことになりました。なんと、アモン人との戦いに勝利して帰ってくると、彼を出迎えたのは、まだ若い彼の一人娘だったのです…。しかもタンバリンを手にとって、喜び踊りながらお父さんを迎える彼女の姿が、より一層その悲劇を増し加えています。エフタはその娘の姿を見て、胸の痛みを抑えきれず、思わず自分の着物を引き裂きました。この悲劇は、その後も長くイスラエルでも長く語り継がれることになりました(40)。

この聖書の箇所は本当に難解です。ヘブル人への手紙では「エフタについても話すならば時が足りないでしょう。彼は信仰によって国々を征服し、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました(11:32-34要約)」と、エフタの信仰が評価されています。しかしもし評価するならば「お父さま。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから(36)」と告白した娘の信仰こそ評価されるべきではないでしょうか?

仮に、最後まで主に従い、誓願を果たしたエフタの信仰が立派だったとします。しかしもっと立派なのは、そのような誓願を立てず、ただ無条件に主に従うことなのです。◇私たちも「主よ、もし助けてくれたら○○します」なんて軽率な誓願(神様との取り引き)をしないよう気をつけなければなりません。そのような条件を付けず、ただ「はい」は「はい」と、素直に主に従うことが大切なのです。

あなたがたは
『偽りの誓いを立ててはならない。
誓ったことを主に果たせ』
と言われていたのを聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。
決して誓ってはいけません。
『はい』は『はい』、
『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。
それ以上のことは悪いことです。
(マタイ5:33-37要約)

2009年3月28日土曜日

第8回「偶像礼拝、堕落の入口」8章22~35節

ギデオンはまたの名を「エルバアル」と言いました。それは彼が、父の家のバアル祭壇を壊し、アシェラ像を切り倒したからです(6:25-32)。彼はそのように、偶像と決別することによって士師の人生をスタートさせました。それからの活躍は、今まで学んできた通りです。しかし彼は晩年、再び偶像礼拝の罪へと逆戻りしてしまうのです。いったい彼の身に、そして心に、何が起きたのでしょうか?

彼は最初、自分の「欲」を抑えることができていました。ミデヤンとの戦いの後、興奮した民はギデオンに「私たちを治める王になって欲しい」と願いました。きっと、厳しい現実の中で、力強いリーダー(王)にすがって生きたいと願ったのでしょう。しかしギデオンは「主(ご自身)があなた方を治められます」と断わりました。それは正しい判断でした。なぜならイスラエルという「選びの民」は、地上の権力に支配される民ではなく、主と主の言葉によって治められる民だからです。

しかしギデオンは、その後ちょっとした心の隙をつかれてしまいました。彼はこう言いました。「ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪(金)を私に下さい(24)」と。そして、その金でエポデを作ったのです。エポデは本来、祭司が祭儀において着用するための聖なる装束でした。しかしギデオンとイスラエルは、それをまるで偶像のように扱い、その前で淫行を行ったのです。思い起こしてみれば、元々ギデオンは「目に見えない神」を信じられず「しるし」を求める人でした(6章)。

これは、アロンの過ちと非常によく似ています(出エジ32章)。アロンは民に言いました。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい」と。そしてアロンはそれで金の子牛を造り、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言ったのです。そして民は、その子牛の前で、飲み食いし、(不道徳に)戯れました…。つまり偶像礼拝とは、単に他の神々を拝むことだけではなく、真の神(ヤーウェ)を自分の都合の良い形にし、てっとり早く礼拝することも含んでいるのです!

霊的な姦淫は、肉的な姦淫への入り口でもあります。ローマ人への手紙にはこうあります。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました(1:21-24)」と。ギデオンの堕落も、「金銭を愛すること」から始まり、「霊的な姦淫」、そして「肉体な姦淫」へと、エスカレートして行ったのです。

そのギデオンには大勢の妻がいました(30)。これは「ふたりは一体となる(創2:24)」といわれた、本来の結婚のかたちとは大きくかけ離れていました。その妻により彼には70人もの子供がいましたが、その子供がこの後、問題となります(9:5)。最初は気が小さく、主の励ましによって一歩を踏み出した「士師」ギデオン。しかし彼は、いつの間にか、大きく信仰の道を踏み外してしまいました。

あなたは大丈夫ですか?いつの間にか、偶像礼拝に陥っていませんか?金銭を愛すること、それがすなわち偶像礼拝の始まりです。なぜなら、その「むさぼり」こそが「偶像礼拝の正体」だからです(コロ3:5)。◆またあなたは、真の神への恐れを失い、自分の都合のよい、てっとり早い礼拝で満足していませんか?それもまた立派な「偶像礼拝」なのです!堕落の入口は、身近な所にあるのです!

金銭を愛することが、
あらゆる悪の根だからです。
ある人たちは、
金を追い求めたために、
信仰から迷い出て、
非常な苦痛をもって
自分を刺し通しました。
Ⅰテモテ6章10節

2009年3月23日月曜日

第7回「怒りのコントロール」8章1~21節

さて、いつもここから始まりますが、元々ギデオンは「マナセの内では最も弱く、父の家でも一番若い者(6:15)」でした。しかしその彼が主に選ばれ、主のしるしをいただき、立ち上がったのです。そして前回は、わずか300人を率いて、13万5千人のミデヤン人を追い詰めました。彼は、その後どうなっていくのでしょうか。

勝利をほぼ手中に収めた時、内部からの批判が巻き起こりました。まずはイスラエル民族の中で、最も強いエフライム族からの嫉妬でした。彼らは言いました「なぜ私たちに呼びかけなかったのか(1)」と。自分たちより弱い、マナセ、アシェル、ゼブルン、ナフタリの連合軍に(6:35)戦利品を独占されてしまうでも思ったのでしょうか。またガド族の中に住んでいたスコテとペヌエルの人々も、ギデオンの軍団がパンを求めた時、それを冷淡に断わりました(8:6)。彼らは一緒に戦わないばかりか、傍観者を決め込み、疲れきった軍団を見てさげすんだのです。

その時ギデオンの怒りの炎が激しく燃え上がりました。彼はスコテの人々に「荒野のイバラやとげで踏みつけてやる」と、またペヌエルの人々に「私が無事に帰ってきたら、このやぐらをたたき壊してやる」と呪いました。そして、それを実行しました。すなわちギデオンは、イバラやとげでスコテの人々を拷問し、ペヌエルの人々を虐殺したのです(16-17)。その頃の彼に以前の面影はなく、人を殺すことにも慣れ、躊躇する長男エテルの前で二人の王にとどめを刺すほどでした(21)。

しかしそれは明らかに、ギデオンの越権行為でした。神様は、あくまで「イスラエルをミデヤン人の手から救え。(そのために)私があなたを遣わすのではないか(6:14)」と命じられたのです。スコテとペヌエルの人々は、はっきりとは記されていませんが、おそらくガド族のイスラエル人であると言われています。とすると、彼は自分の思い通りにならないからと、同胞のユダヤ人をこのように扱ってしまったのです。神様はそんなことを、一言も許してはいません!

権力と力をもつと人は変わります。自分の使命達成のためなら、多少(!?)人々が痛み苦しんでも、それが気にならなくなるのです。そればかりは、自分に逆らう者や、邪魔をする者、特に自分を侮辱にする者には「血の復讐」をしても「やむなし」と考えるようになってしまうのです。何と恐ろしいことでしょうか!私たちは、どんなに小さな権力や地位であっても、それが与えられたら「人一倍謙遜であるように」気をつける必要があります。それができないと、主に用いられた人であっても、ギデオンのように、人生の坂を転げ落ちて行くことになります…。

ダビデも同じ誘惑を感じました。彼は自分をさげすんだナバルに、剣で復讐をしてもやむなしと考えましたが、その時はナバルの妻アビガイルの賢いとりなしもあり理性を取り戻すことができました(Ⅰサム25章)。ですがその後、自分の欲望のためにバテ・シェバと関係をもち、夫ウリヤを間接的に殺してしまいました(Ⅱサム11章)。そのような失敗を通して彼は「権力の恐ろしさ」と「自分の罪深さ」を思い知ったのです。その後の彼は驚くほど柔和な者とされました(Ⅱサム16章)。

今のあなたに大きな権力はないかもしれません。しかし心は「王様」のようになっていないでしょうか?◆あなたは自分の事ばかりを考え、周りの人々の「痛み」や「苦しみ」に鈍感になっていませんか?人(家族・友人)を自分の思い通りに動かそうとしていませんか?また人の悪(侮辱)に対しては復讐してもよいと勝手に考えてはいませんか?◆そんな自分を発見するのなら、あなたは非常に危険なところにいます!私たちに復讐する権利はないことを、忘れてはいけません。

愛する人たち。
自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする、と主は言われる。」
ローマ12章19節

2009年2月26日木曜日

第6回「神様の選考基準」7章1~25節

前回の箇所で主によって選ばれたギデオン。しかし元をたどれば「彼の分団はマナセの内で最も弱く、彼は父の家では一番弱い(6:15)」者でした。そこで彼は「これが本当に主ご自身から出たことであるかどうか」を確かめるために、主に再三にわたって「しるし」を求めたのです。そして主は、ことごとくその願いを聞き入れられました。彼の不安は消え去りました。いよいよ「戦」の始まりです!

ギデオンたちは「ハロデの泉」の近くに陣をしきました(1)。ハロデとは、「おののき」という意味です。そこで主は突然こう言われました。「あなたと一緒にいる民は多すぎる。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に誇るといけないから(2)」と。そこで主による選考が始まるのですが、主は最初「恐れおののく者はみな帰りなさい(3)」と命じられました。その結果、2万2千人が帰ってしまい、1万人のみが残りました。敵は海辺の砂ほどたくさんいるのに…(12)。

なぜ主は「恐れおののく者はみな帰れ」と命じられたのでしょうか。申命記にその理由がありますが、そこには「戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから(20:8)」と記されています。つまり、恐れおののく者がいると、その「恐れ」が伝染するというのです。確かに聖書には、弱気な言葉を聞いて、心がしなえてしまう民の姿が、しばしば登場します(民13,14章)。しかしその反対もまた真実です。信仰に基づいた勇敢な言葉は人々の心を強め、勇気を与えるのです。

続いて主は、水辺にて民を試されました。その選考基準は非常にユニークで「犬のように、ひざをついて舌で水を飲んだ者は失格とされ。手を口に当てて水をなめた者は合格(5)」とされたのです。なぜでしょうか。それは戦場においては、いつどこから敵が襲ってくるか分からないからです。そんな時に犬のようにカブガブ水を飲む「油断した者」は、兵士としてふさわしくないのです。兵士とは、水を飲むときも目を光らせ、片手は槍から離さないものです。残った者は僅か3百人でした。最初は3万2千人いたのに1パーセント未満に減ってしまいました。

ギデオンはその3百人で、13万5千人のミデヤン人に挑みました(8:10)。その数なんと450倍です!しかも彼らには、数えきれないほどの「らくだ」がありました(6:5)。人間的に考えたら勝ち目はありません。しかし主は、まさにそのことを明らかにするために、民を選考したのです。人間の無力を明らかにし、神の力を明らかにするのが、神様の方法です。ギデオンたちは敵に攻め入りました。その前に主が夢によって、敵に恐怖心を植え付けていたので(13)、敵はパニックに陥り同士打ちを始めました(22)。こうして彼らは、敵を壊滅状態にしたのです。

私たちは、主の兵士です。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい(Ⅰテモ6:12)」と聖書には勧められています。クリスチャン人口は、日本の中で1パーセント未満ですが、それでも勇敢である必要があります。そこで質問です。あなたは神の国の兵士として「ふさわしい者」でしょうか?それとも、不信仰な言葉と弱音によって、兄弟姉妹の士気を下げてしまう者でしょうか?油断をして、敵を見失い、挙句の果てに「同士打ち」をしてしまう者でしょうか?

もし相応しくないと思うなら、あなたは合格です。もちろん前向きな信仰や、生活の中でも、本当の敵を見失わないことは大切です。◇しかし主の兵士として一番ふさわしくないのは、すぐに「自分の手で自分を救った」と勘違いする傲慢な者なのです。私たちが弱い時ほど、実は信仰によって勇士となるチャンスなのです!

これ以上、何を言いましょうか。
もしギデオン、バラク、サムソン、
エフタについても話すならば、
時が足りないでしょう。
彼らは、信仰によって、
弱い者なのに強くされ、
戦いの勇士となりました。
へブル11章32-34節(抜粋)

2009年2月19日木曜日

第5回「主を試みる ギデオン」6章1~40節

今日の箇所は、士師記の中でもっとも記述の長いギデオンについてです。それはあのサムソンよりも長いのです。またこの「ギデオン」の名は、あの聖書を配布する「ギデオン協会」によっても有名になりました。さぁ、ギデオンはどのような信仰をもって、どのように活躍したのでしょうか?一緒に見ていきましょう。

ギデオンの時代、イスラエルは再び非常に弱っていました。ミデヤン人はイナゴの大群のようにしてやってきて、イスラエル人の町を、滅茶苦茶に荒らしてしまいました(5)。そこまで国が荒廃した原因はイスラエルの不信仰にありました。彼らはデボラ以後、再び主から離れ、「バアル」や「アシェラ」の神々を拝んでいたのです。ギデオンも、そのような環境にどっぷりつかって育ってきました(25)。しかし、主のイスラエルに対する愛(熱心)は、変わることがありませんでした。

イスラエルが主に叫び求めると、主はギデオンを士師として選ばれました。しかし当のギデオンは、まったく自信がなく、召された時も、ミデヤン人から逃れ、隠れるように酒ぶねに身を潜め、小麦粉を打っている時でした。そんな彼に対し、主の使いは「主があなたと一緒におられる(12)」と告げられました。しかしギデオンは全く喜べないどころか「主の栄光はもう過去のもので、主は私たちを見捨てられたのだ」「私は父の家で一番弱く一番若い」と言い逃れをするばかりでした。

確信を求め、ギデオンは主を試みました。彼はこう願いました。「お願いです。私と話しておられるのが、あなたであるというしるしを見せてください(17)」と。一見、拙い信仰から出た願いのようです。しかし主はその願いをも聞かれ、彼の目の前で不思議を行われました(21)。それに加え、彼の父にも変化が起こりました。彼は父が熱心に拝んでいた偶像を壊してしまったのですが、父は彼を責めず、町の人々から彼を守ったのです(31)。また彼が角笛を吹くと、多くの民がギデオンに従うためにやってくるではありませんか!その全てが「しるし」でした。

しかしギデオンは、それでも確信をもてませんでした。そこで彼は更に二度も、主を試みたのです。有名な羊の毛の話です。一度目は、羊の毛だけをつゆで濡らし、地面は乾いているようにと。そして2度目は、羊の毛だけは乾いていて、地面は濡れているようにと(37-40)。身勝手で、主をいたずらに翻弄しているかのような願いです。しかし主はそのいずれにも答えられました。私たちの不信仰を受け止め、必要ならば「しるし」さえも与えてくださる主の憐れみがそこにあります。

聖書の中で一か所だけ「主を試してみよ」と勧められている個所があります(マラ3:10)。献金の箇所です。もしも私たちが精一杯捧げるなら、主は溢れるばかりの恵みをもって報いてくださるのでだと。またトマスは「イエス様の復活のしるしを見ないと信じない」と言いました。イエス様はそんな彼にも現れ、十字架の傷跡を示されました。これらの箇所を読む時、私たちはもっと積極的に「しるし」を求めてもよいような気がします。「求める者には与えられる(マタ7:7)」のですから。

しかし主の「究極の御心」は別なところにあります。それは私たちが「見ないで信じる者」となることです。主は私たちが思う以上に憐れみ深い方なので、自己中心な要求であっても敢えて答えられることがあります。しかしそれを当然と考えてはいけません。答えるか答えないかは、あくまで「主の主権」に属することなのです。またそこに留まっていてもいけません。私たちは更に成長し、どんな試練の中でも、ただ主を愛するが故に、従う者とならなければいけないのです。

イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネ20:29

2009年2月12日木曜日

第4回「二人の女性と鉄の杭」4章1~24節

今日の箇所は、ある意味において非常に興味深いと思います。というのは二人の女性が用いられ、イスラエルの勝利に貢献しているからです。当時の社会と言えば、徹底的な男性優位(男尊女卑)な社会でした。その中にあって、主が、彼女たちを用いられたことには、どんなメッセージが込められているのでしょうか?

まずデボラはどんな人物だったのでしょうか?彼女は「女預言者」でしたが、いつも、なつめやしの木の下に座りイスラエルの民をさばいていました。それが何とも神秘的な雰囲気をかもし出していますが(5)、当の彼女自身は、何か特別な人物であったわけではありません。彼女は「ラピドテの妻(4)」と紹介されていますが、ごく普通の、妻としての役割もちゃんと果たしていたと考えられています。

イスラエルの将バラクは、そんな彼女に助けを求めました。軍隊と言えば、男社会の中でも、特に上下関係の厳しいところです。バラクはそのトップにいたのですが、その彼が、女預言者デボラに「もしあなたが私と一緒に行って下さらないなら、行きません(8)」と懇願したのです。もちろんそれは、鉄の戦車900両を有する敵が(3)それほど強大だったということでもありますが、自分の無力を認め、素直にデボラに助けを求めた彼の姿は、謙遜という意味において立派でした。

私たちもみな、本来そうでなければいけないのです。多くの場合私たちは、試練に遭遇すると、あれこれ自分の知恵と力で対処し、どうにもこうにもいかなくなってから「仕方がなく」主により頼むのです。しかし私たちはバラクのように、最初から自分の無力を認め「ともにいて下さる主と(マタイ28:20)」ともに困難に立ち向かうことが大切なのです。その時主ご自身が勝利を取ってくださいます(15)。逆にいえば、この主がともにおられるならば、何も恐れることはないのです!

もう一人の女性はケニ人「へベルの妻ヤエル」でした。ある日突然、敵将シセラが、命からがら逃げ込んできました。そしてヤエルに「一杯の水」を求めたのです(19)。彼女は丁寧に応対し、毛布をかけ、乳を与えました。すると彼は安心し、熟睡してしまいました。その時、ヤエルは鉄の杭をもってシセラの「こめかみ」に打ち込み、一撃にして暗殺してしまいました(21)。彼女の夫「ケニ人へベル」は、モーセの義兄弟の子孫であることから、おそらくヤエルも、何らかのかたちで真の神信仰をもっていたと推測されます(11)。今日の箇所で主は、二人の女性を通して勝利されることにより、ご自身の栄光を明らかにしてくださいました(9)。

このような不意打ちがいつも賞賛されているのではありません。ここで学ばなければいけないのは、むしろ敵将シセラのようにならないように、ということでしょう。彼は「一杯の乳」を飲み、油断し、熟睡してしまいました。もし私たちが、試練の中で不安を覚え、疲れ果て、霊的な渇きを覚えるならば、その時にこそ、私たちは、主に「生ける水」を求め、飲み、目を覚ましていなければならないのです。そうしないと、私たちはいとも簡単に、敵(サタン)に隙を突かれてしまいます。

私たちの主は、勝利の主です。この方はやがて来られ、サタンのかしらを完全に打ち砕かれます(創世3:15、ロマ16:20、黙示12:17)。◆しかもそれだけではなく、イエス様はもう既に十字架によって、サタンのこめかみを打ち抜いてくださったのです。◆もし私たちが、この方を信頼し、この主とともに立ち向かうならば、私たちはどんな試練の中においても、圧倒的な勝利者とされるのです!

私は見る。しかし今ではない。
私は見つめる。しかし間近ではない。
ヤコブから一つの星が上り、
イスラエルから一本の杖が起こり、
モアブのこめかみと、
すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。
民数記24章17節